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更新日:2016年1月26日

「あおもり歴史トリビア」第14号(2012年7月6日配信)

合浦公園の招魂堂(担当:竹森)

合浦公園に昔、招魂堂(しょうこんどう)と呼ばれる建物があったのを御存知でしょうか。

幕末維新期、藩士の戦意高揚を図るために執り行われた招魂祭は、戊辰戦争で亡くなった兵士を英霊として弔(とむら)うもので、戊辰戦争を通じて全国各地に広まりました。弘前藩での招魂祭は、明治2年(1869)6月6日に弘前の宇和野(うわの)町(現弘前市小沢・大開〈おおびらき〉周辺)で行われたのがその最初と言われ、戊辰戦争、箱館戦争での戦死者対象の慰霊祭が執り行われました。その後、津軽各地で祭事を執り行うための堂社である招魂堂の建立が計画されることとなり、合浦公園の招魂堂もそのうちのひとつです。弘前藩最初の招魂祭については『新青森市史』通史編第2巻近世に載っていますので、興味のあるかたは是非ご覧ください。

青森での招魂祭は、明治5年5月17日、廣田宮(現廣田神社)で行われたという記録が最初のものであるようです。その後、明治18年までの招魂祭は善知鳥神社で行われ、明治19年からは青森公園(現合浦公園)で開催されるようになったことから、明治28年4月、公園内に招魂堂を建てようという計画が立ち上がりました。

合浦公園にあった招魂堂(市史編さん室所蔵の絵はがきより)
合浦公園にあった招魂堂(市史編さん室所蔵の絵はがきより)

招魂堂は明治32年には完成しており、公園の入り口から見て真正面、海手側に位置していたようです。明治41年に合浦公園設計指揮のため来青した公園設計者長岡安平(ながおか・やすへい)はこれを見て、「招魂堂が視界を阻んでいてせっかくの海が見えない」とし、招魂堂を公園の東へ移転すると言っています。もっともこの計画は明治43年の大火で頓挫(とんざ)し、その後『東奥日報』で「招魂堂移転」の文字が見つかるのは大正4年(1915)6月6日付の記事です。これによると「旧国道正面に移すべし」とあり、招魂堂は同年の工事で公園内中央部を走る旧奥州街道東端へと移転することとなりました。

大正15年頃の合浦公園の招魂堂(市史編さん室蔵、「大日本職業別明細図之内青森県」より)
大正15年頃の合浦公園の招魂堂(市史編さん室蔵、「大日本職業別明細図之内青森県」より)

以降、招魂祭のシンボルとして合浦公園を見守り続けた招魂堂ですが、昭和24年には空襲により焼失した諏訪神社の拝殿として移築されることが決まり、合浦公園から姿を消します。現在は市民の憩いの場である合浦公園で、かつて毎年慰霊の儀式が行われていたというのは興味深いですね。それではまた。

※今回の歴史トリビアの一部は、『新青森市史』通史編(現代)の執筆協力員、中園美穂氏の研究によっています。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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