ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第26号(2012年9月28日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは!夏の暑さからあっという間に肌寒い秋に変化してしまい、季節の移ろいの速さを感じる臨時職員の橋本です。今回は、私が編さん室のかたから聞いて驚いたお話をご紹介したいと思います。
皆さん、こんなお話を聞いたことはないでしょうか。昔、正午になると何処からか「ドーン」という音が鳴っていたという話を…。
現在ではテレビやラジオが正午の時報をお知らせしてくれていますが、青森市ではかつて大砲を一発鳴らして市民に正午を伝えていたのです。この大砲は「午砲(ごほう)」といい、当時は小高い丘だった場所に午砲を置き、ドーンと鳴っていたことから「ドン山」と呼んでいました。
大正15年頃の午砲台周辺(市史編さん室蔵「大日本職業別明細図之内青森県」より)
(津島染工場などがある通りは柳町通り、線路は東北本線〈現在の青い森鉄道〉)
そもそものきっかけは、大正9年6月10日のことでした。「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」という、国民に時間の大切さを尊重する意識を広めるために「時の記念日」が定められた事が物語のはじまりなのです。
青森のドン山の誕生には、二人の人物が関わっていました。
大正10年、市会議員などを務めた鍛冶町(現在の本町)の柏原彦太郎は、当時としては大金だった1千円余りの私費を投じ、市民に正しい時間を知らせるため、北海道の室蘭にある製鉄所に午砲を作らせ、青森市に寄贈したそうです。そして、運営基金(1万円程度)として市へ寄附したのは大町(現在の本町)の篠原善次郎でした。このかたは大正15年にも6台の乗合自動車とお金を市へ寄附しており、「市営バスの創始者」と言われています。合浦公園内には彼の胸像があります。
篠原善次郎と寄附された乗合自動車
(『目で見る青森の歴史』より)
大正10年11月4日付の『東奥日報』は、午砲基金を寄附した功績によって紺授章を受賞した善次郎の祝賀会のようすを伝えています。その席で善次郎は、自分の寄附によって午砲が短期間で設置されたことへの喜びに加え、「人々が少しでも時間を守らなくてはならないという意識を持ってくれるようになれば、これに過ぎる満足はありません。」と語っています。
午砲台公園
午砲(レプリカ)
午砲が置かれていた場所は、現在、公園になっており「午砲台公園」(桂木2丁目)として名前を残しています。そして、この公園の中を見渡すと…午砲がありました!
平成6年に復元されたレプリカですが、今も公園内の小高い丘で、黒い午砲がドシンと陸奥湾を向いて構えているのです。
この午砲は、これからも市民の「時」を見守り続けることだと思います。
※今回の内容は秋元良治氏の著書『ドン山物語』(北の街社刊)、『青森市議会史 大正編昭和戦前編』などを参考にしています。
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