ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第29号(2012年10月19日配信)
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更新日:2015年6月1日
お久しぶりです、嘱託員の竹森です。今回は、栄町の諏訪神社について少しお話をしてみたいと思います。
『青森市史』第10巻社寺編によると、諏訪神社は藩政時代、現在の場所ではなく、堤川の中州(今の青柳橋手前あたりの位置)の上にポツンと位置しておりました。
堤川の中州にあった諏訪神社
(『新青森市史』資料編4近世(2)付図「青森町絵図」のトレース図より)
宵宮で賑わう諏訪神社
寛永8年(1631)、もともと浪打に位置していた諏訪神社をこの中州へ移転させたのは、青森開港を指揮していた森山弥七郎といわれています。これは、諏訪神社の祭神が航海安全の神様であることから、青森から江戸へと向かう船の安全祈願をねらっての移転であるといわれています。ちなみに、諏訪神社がこの中州にあった時期に、堤川をのぼってきたイルカが群れをなして諏訪神社を参拝にきた、というユニークな伝説が当時の資料に残っています。イルカたちは中州に揚がった小魚を追ってきたのでは、というのは諏訪神社のかたから拝聴したお話ですが、なんとも興味深いお話ですね。
さて、中州にあったこの社殿は明治5年(1872)3月25日の青森大火により焼失してしまいます。その再建にあたり、火災の危険を考慮した上で、現在立地する栄町一丁目へ移転することになり、仮社殿を建て、明治40年(1907)には本殿、大正10年(1921)には拝殿の再建が完了しました。
その後、昭和20年(1945)の青森大空襲では本殿や拝殿などを再び焼失することとなりましたが、諏訪神社の拝殿復興は昭和24年(1949)と、市内でも特に早かったといいます(『御鎮座一千年記念神社誌諏訪神社』)。
これは、当時進駐軍の接収を受けていた合浦公園の招魂堂(7月6日の歴史トリビアでお話したものです)を払い下げし、拝殿として利用したためです。たしかに、下の写真にあるように、今の拝殿とかつての招魂堂を見比べると、当時の面影が残っています!
この移転の様子について、『青森市政百年に寄せて―横山実市長の時代―』に掲載された宮司・柿崎義明さんの文章を見ると、なんと解体はせず、道路に敷いた丸太の上に乗せて二日がかりで引っ張ってきたというのですから驚きです。
ちなみに、この年の7月から毎年、現在にいたるまで、諏訪神社では招魂祭(戦死者の魂を英霊として弔う儀式)が執り行われています。合浦公園での慰霊の儀式は、場所を変え、こうして受け継がれているのですね。
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