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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第33号(2012年11月16日配信)

箱館戦争と青森町(担当:工藤)

こんにちは!事務長の工藤大輔です。

今回は、箱館戦争と青森町について少しお話ししましょう。

青森町が、旧幕府軍と新政府軍とが箱館をはじめ、北海道南部で戦った「箱館戦争」に巻き込まれるようになるのは、旧幕府軍が五稜郭を占領し、新政府軍を率いる箱館総督清水谷公考(しみずだに・きんなる)を乗せた蒸気船が、箱館から青森湊に入港した、明治元年(1868)10月25日だとみていいでしょう。


冬の五稜郭

この日は、清水谷と彼に付き添う兵士のほか、800人の兵士が青森町にやってきました。そして、翌26日は弘前藩兵300人余のほか、箱館から引き揚げる諸藩の兵士800人が青森へ到着します。この2日間で2000人程の人数がやってきたことになります。もちろん、数字は記録によって異なりますが、少ない方の数字を採ったとしても、1000人以上であることは間違いありません。しかも、突然にですよ。

その後も青森町には箱館からの引き揚げ兵士のほか、各地からの援軍兵士が入り込み、青森町はこの戦争の前線基地となります。そして、明治2年の4月下旬には、12000人程の兵士が駐留していたといいます。当時の青森町の人口は10000人を少し超えた程度です。ですから、青森町は短期間のうちに人口以上の人数を抱えなくてはならなかったのです。

これは、青森町の収容力を超えており、宿を勤めたお家の記録には、「家の者の疲労が重なり迷惑だ」といった心境を吐露する記述もみえています。兵士の宿は、常光寺などのお寺のほか、市中で宿泊できるところならばどこでも、たとえば、女性ばかりのお宅でも強引に宿が割り当てられたようです。また、経済的にも負担がありました。兵士たちへの日々の賄いに加えて、数百両もの調達金を求められるお家もありました。


戊辰戦争の墓地
(市史編さん室蔵 昭和18年発行「番地入青森市全図」より)

近代初頭の青森町には「閉塞感と無力感が漂っていた」(長谷川成一『弘前藩』)という評価もあるように、青森町は町ぐるみでさまざまな負担を求められながら、箱館戦争の遂行を支えていたのでした。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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