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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第35号(2012年12月7日配信)

戦国武将・柴田勝家の子孫、青森へ(担当:渡邊)

市史編さん室には、歴史を知ろうと様々なかたが訪ねていらっしゃいます。

今年6月には、戦国武将「柴田勝家」の子孫のかたが市史編さん室を訪問してくださいました。

「柴田勝家」といえば、天正11年(1583)の豊臣秀吉との戦いで、茶々・初・江の三姉妹を逃した後、居城「北の庄」(福井県)で妻お市の方と共に自害したことが知られていますが、今回訪問してくださった、御子孫の柴田勝次郎さんによれば、実は、「北の庄」の落城直前、子の「勝春」を柳川(福岡県)の立花家へ落ち延びさせたといいます。

その際、勝家は、自害する直前に描かせた自身の肖像画を勝春の乳母に託しており、以来、勝家の肖像画は、代々、子孫のかたが守ってきましたが、平成5年に、12代目の勝次郎さんから福井市立郷土歴史博物館に寄託されたそうです。当時の毎日新聞には、「柴田勝家像」が「お市の方像」(高野山・持明院蔵)とともに同館で展示され、410年ぶりに福井に戻った「勝家像」を感慨深く見る勝次郎さんの記事が掲載されています。


柴田勝家像
(この画像は柴田勝次郎氏に許可をいただいたものであり、
許可なく使用することを禁じます。)

この勝家像の写真を見せていただきましたが、これを拝見して、昨年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」のシーンが蘇りました。ドラマで柴田勝家を演じていた大地康雄さんにそっくりだったのです。おそらく、この肖像画の風貌をイメージしての配役あるいは役づくりだったのではないかと思ってしまいました。ちなみに、共に自害するお市の方は鈴木保奈美さんでしたね。

さて、柴田勝家の子孫のかたが青森を訪れた目的とは何でしょう?

実は、前々回の歴史トリビアでご紹介した「箱館戦争と青森町」についてのお話に関係しています。

勝次郎さんによれば、代々、柳川藩客分として仕えていた勝家の子孫ですが、勝次郎さんの曽祖父の代に辞任して浪人となり、その後、維新期に、祖父が新政府側の久留米藩応変隊に志願し、戊辰戦争に参戦したとのこと。柴田家の再興を願って、命をかけて戊辰戦争に参戦したのだろうと勝次郎さんは考えており、尊敬する祖父が残した記録を参考にしながら、その足跡をたどって青森を訪れたのでした。

勝次郎さんが久留米市からいただいた資料によると、久留米藩応変隊について、「津軽青森領まで60里は山道で険しいうえに、冬であり、寒気が厳しく、積雪も深く、難行の雪中行軍の困苦は言語に絶した」ようで、「ようやく11月27日に青森に到着し蓮華寺に入って滞陣した」とあることから、青森滞在の際の弘前藩の対応や蓮華寺での様子などをお知りになりたいとのことでした。


蓮華寺

当室では、ちょうど今年、『新青森市史』通史編第2巻(近世)を刊行していますが、その中で「箱館戦争と青森町」を取り上げており、青森へ集結する官軍兵士のことが書かれています。前々回のトリビアでご紹介したとおり、明治初頭の青森町には各地からの援軍兵士が入り込み、明治元年11月末には久留米・岡山・津の三藩の兵300人ほどが青森に到着し、これが先発隊で、その総数は1,100人ほどであったとあります。また、青森町の人々は、援軍兵士への対応に奔走しながらも容易ではなかった様子が書かれています。必要物資の調達が追いつかず、厳寒期にもかかわらず、駐屯兵の布団は三人に一枚の割当が限界だったといいます。犬を狩り、その毛皮を防寒具にしたほどであったとも。

きょうは「大雪」。寒い一日ですが、こんな季節に布団のない青森の夜を過ごす南国の兵士たちも、受け入れた青森町の人々も、本当に大変だったことでしょう。

箱館戦争の前線基地と化した当時の青森の様子はとても興味深いものがありますので、詳しくお知りになりたいかたは、前出の市史をご覧いただければと思います。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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