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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第40号(2013年1月11日配信)

青森市の発展に尽くした大坂金助の生涯(担当:橋本)

今回は、青森市にゆかりのある人物をご紹介したいと思います!

青森市の経済発展に尽くしたといわれる初代・大坂金助〈弘化2年(1845)-大正14年(1925)〉です。大坂は酒造業や銀行業などのビジネスで成功し、青森市議会議員、衆議院議員、貴族院議員など政界でも活躍しました。


初代大坂金助(『青森市史』別冊人物編より)

そんな大坂ですが、実は幼少時代から不遇続きで、日々の暮らしにも困るような貧困のなかで育ちました。厳しい環境のなかで、大坂が産業をどう発展させていったのか、不幸のどん底からはい上がった成功物語を一緒に追ってみましょう。

大坂は蜆貝村(現青柳)に父・弥吉、母・テルの長男として誕生しました。父を7歳の時に亡くし、病気の母の看病をしながら魚の行商などをして生計を立てました。しかし、その母も18歳の時に亡くなり、ただ1人の弟も早くに失ってしまいます。生涯孤独となった大坂は放浪し、破天荒な生活を送りましたが、結婚を機に立ち直ったそうです。

転機となったのは明治5年(1872)3月25日、松森町(現在の青柳、堤町、本町の一部)・博労町・塩町・莨町・堤町・茶屋町で506戸を焼失する大火が起こったことです。大火からの復興のために職人などの出入りが激しくなることを予想して、近くに大金楼という貸座敷店を開いたのです。予想が的中し、店は繁盛しましたが、大坂はこの商売を長く続けるべきでないと考え、9年間で店をやめ、酒造業を始めます。

このほか、明治26年に銀行法が改正されたときに大坂は経済界の心臓ともいうべき銀行に着目し、青森商業銀行を創立、渡辺佐助の創立した青森銀行(明治33年に第五十九国立銀行と合併)と青森市の金融界を二分しました。青森市に電灯会社を創立するときには、一個人でなしえる事業でないと考え、渡辺らと協力して青森電灯株式会社を設立し、ランプから電気への革命を起こしたのです!


青森電灯株式会社(『目で見る青森の歴史』より)

大坂の勢いは当時の地名にも表れています。現在の「港町」ですが、昭和54年以前は「大坂町」と呼ばれていたそうです。この地名は、大坂の所有地がこの地区の大部分を占めていたことに由来するといいます(昭和60年4月30日付の『東奥日報』の記事による)。


昭和13年頃の大坂町周辺(市史編さん室所蔵、「地番入青森市全図」より)

明治15年、日本鉄道株式会社が青森-東京間に東北線の鉄道建設を計画した時、終着となる青森駅舎用地の決定は難航しました。日本鉄道会社は大坂町を駅舎用地にする予定でしたが、大坂ら日本鉄道株主が大坂町や杉畑周辺(現市役所付近)の土地を買い占め、地価が高騰したことで用地買収に困難が生じたのです。結局、駅舎用地は候補外であったものの、地価が安かったことから安方に決まったそうです。

大坂はアテが外れた格好となりましたが、大坂町のまちづくりを進め、賑やかなまちとなっていきました。


大坂金助の邸宅(『新青森市史』資料編6より)

大坂はここではご紹介しきれないほどさまざまな事業を通して青森市に貢献した、影響力のある存在でした。青森市を語る上では欠かすことの出来ない人物といえるでしょう。

今回の内容は青森県児童文学研究会・編著『青森県を築いた人たち』(東奥日報社発行)、青森市文化団体協議会・編『あおもり文化100年の軌跡』(北の街社刊)などを参考にしています。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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