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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第57号(2013年5月17日配信)

妙見の垂れ桜・大星神社(担当:鈴木)

皆さん、こんにちは。嘱託員の鈴木です。

今年は例年になく遅い桜の開花でしたね。青森市内には桜の名所がたくさんありますが、今回はそのひとつ、「大星神社」についてお話したいと思います。

問屋町一丁目にある大星神社について、『青森市史』社寺編(昭和47年発行)には、次のように書かれています。

大星神社の由緒書によれば、桓武天皇の御代延暦11年(792)に蝦夷鎮護の祈願所として草創され、同20年に坂上田村麻呂将軍東夷征討のときに本殿を再興し「妙見宮」と称しました。その後、初代弘前藩主為信が本社の再建を命じ、また二代信枚が参詣、四代信政が社地を整備し桜樹を移植しました。

さらに九代寧親公が幕府より蝦夷地警備を命じられるにあたって、往古より蝦夷征伐に由緒が深い妙見宮に壮麗な社殿を構築、神器諸物を寄進、直筆の社号の額(昭和37年に青森市文化財指定)を奉納するなど、弘前藩主の祈願所として大切にされてきました。

さて、その境内には、立派な花崗岩の大鳥居が建てられており、これは文化6年(1809)に、当時江戸で有名な考証学者狩谷棭斎(かりや えきさい、名は望之)が建立したものです。建立当時の事情を物語る資料はありませんが、狩谷氏は津軽屋の屋号で江戸の本郷湯島にて米穀商を営み、代々弘前藩邸に出入りした御用達であったため、弘前藩の米穀を江戸に運漕するのに関係していたのではと考えられています。


大星神社


大鳥居には「狩谷望之建」と刻まれています

ほかに、同神社には田村麻呂将軍が蝦夷征伐の際に用いたと伝えられる古面もあり、平成23年のねぶたには、この伝説をテーマにした竹浪比呂央さん作「田村麿と妙見宮の鬼面」が出陣しています。これらの中世の舞楽面9枚と近世の能面1枚は、平成11年に青森県文化財に指定されました。

大星神社付近は、現在は商業団地として流通の中心ですが、もとは弘前から青森へ通じる大豆坂(まめさか)街道に近く、とても緑の多い地区だったそうです。今も、当時の街道の名残の追分石が、大星神社近くの新妙見橋たもとに残っています。


追分石

明治3年(1870)、神仏分離令により妙見宮は大星神社と改称し、同6年には郷社に列せられました。大星神社は、その後も青森市民および近隣の住民の信仰を集め、正月や旧6月15日の大祭のみならず、春には境内に咲き誇る桜花の下に多くの人々が集まりました。編さん室にも、人々が桜の下に集う古い絵葉書があり、当時の大星神社の賑わいがうかがえます。


大星神社の桜を写した古い絵はがき
(市史編さん室所蔵)


大星神社の垂れ桜

長く厳しい冬が終わり、春を迎える喜びは昔も今も同じですが、冬を暖かく過ごせる現代人よりも、昔の人の方が桜に感じるものは大きかったのかもしれません。神社の周囲の様子はだいぶ変わってしまいましたが、境内には今も見事な垂れ桜の大木が残っています。そんな昔に思いをはせて、名残の桜を味わってみてはいかがでしょうか。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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