ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第71号(2013年8月23日配信)
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更新日:2015年6月1日
盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が終り、家族再会の賑やかさが去って、寂寥感が漂っているこの頃ではないでしょうか。お盆に先祖を迎え、手を合わせ祈ったかたも多いと思います。今回は江戸時代前期、全国各地で円空(1632~95)によって彫られた仏像「円空仏」についてお話ししたいと思います。
さて、美濃生まれの円空が、なぜ、はるばる北奥羽や北海道にまで渡って、遊行したのでしょう。旅することの困難な北の地方を円空が選んだのは、苛酷な自然の中で修行しながら仏像をつくり、そこに生きる人々の平穏を願ったためのようです。厳しい土地での造仏遊行に円空の意志の強さを感じることができます。
円空がいつ青森県に来たかは定かではありませんが、寛文6年(1666)正月29日付の「弘前藩庁日記 御国日記」には同26日に円空は、青森経由で松前へ向かったとのことであると記されていますので、その前に弘前城下周辺に滞在したのは確かなようです。青森県に現存する円空仏は、円空が北海道に渡って造仏した後、再び青森に入り、作ったようですが、帰路の作品ばかりなのか定かではないようです。円空にとって、北海道、青森の旅は造像の最も早い時期に位置づけられ、後年の造像の性格や形式を作り上げるのに大きな意義があったようです。
現在、青森県下で刻まれた「円空仏」は17体あるそうですが、そのうちの3体が青森市にあります。
浪岡西光院の円空仏はきりっとした中にも穏やかさがあり、人々を包み込んでくれるようです。民家にあったものを約40年前に西光院が譲り受けたものだそうです。個人宅の仏壇にあったため、線香の煙に燻されて、黒光りし、漆を塗ったかのような仏像です。県の文化財に指定されています。
浪岡西光院
浪岡西光院の円空仏
同じく浪岡元光寺の円空仏ですが、もともとはほかの場所にあったものをこのお寺で保管することになったそうです。火災にあったようで、焦げ目がついていたり、傷があったりします。人々の代りに災いを受けたのかも知れませんが、なお、微笑みかけているようです。これも県の文化財の指定を受けています。
浪岡元光寺
浪岡元光寺の円空仏
最後は油川浄満寺の円空仏ですが、ほっこりと微笑み、つい見る方も微笑み返したくなるような仏像です。これは市の文化財に指定されています。
油川浄満寺
油川浄満寺の円空仏
これらの「円空仏」は高名な仏師が作った仏像とちがい、自然のままの木でつくられた素朴な仏像です。地域の仏様として守り伝えられ、300年以上もの時を経てもなお、人々と寄り添って生きており、また、それを守ってきた先人たちのやさしく強い心もよみがえってくるようです。円空仏の優しさに人々は何度も救われ、心安らいだことでしょう。地域に根ざし民衆に愛された仏像といえます。
※今回の内容は『新青森市史 資料編3 近世(1)』『新青森市史 通史編第2巻 近世』『青森県史 文化財編 美術工芸』『青森県の文化財』等を参考にしています。
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