ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第79号(2013年10月18日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは!事務長の工藤大輔です。
本市にゆかりのある人物である寺山修司が亡くなって、今年で30年を迎えます。彼は、昭和17年(1942)に橋本国民学校に入学します。青森空襲で罹災したため、しばらく父親のふるさとである三沢に移りますが、その後青森に戻り、野脇中学校を経て青森高校に進学します。この当時の寺山は、母方の叔父が経営していた映画館「歌舞伎座」(現モルトン迎賓館の位置)の楽屋で寝起きをしていたといいます。
大正時代の歌舞伎座(市史編さん室所蔵の絵はがき)
さて、「歌舞伎座」ですが、歌舞伎の興行をしていた時代はともかく、映画館としての歌舞伎座については、記憶にあるかたもいらっしゃるかもしれませんね。そして、この歌舞伎座があったかつての塩町は、明治20年代以降の青森の芸能文化の中心的存在であったともいえるでしょう。
一方、藩政時代には塩町ではなく、正覚寺と蓮心寺の間の場所に芝居小屋があり、寺町を中心とする芸能文化のネットワークがあったといいます。しかし、明治3年8月に花街(はなまち)である塩町が衰退しているということで、そのテコ入れ策として芝居小屋が寺町から移転することになりました。実は、当時は青森町全体が勢いを失い、弘前藩が積極的に青森を盛り立てようとしていた時期で、芝居小屋の塩町移転はこれとぴたりと重なるのです。
塩町にあった中村座
(『青森市史』第5巻付図「青森実地明細絵図」より)
つまり、芸能文化のまち塩町は、明治維新という変革期に、藩による「青森町の振興」策が講じられるなかで産み落とされ、大衆文化の発信地として成長していったといってもいいのでしょう。
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