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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第80号(2013年10月25日配信)

箱館戦争戦死者の墓碑 その1(担当:鈴木)

こんにちは。嘱託員の鈴木です。

「官修墳墓(墓地)」というものをお聞きになったことがありますか。これは、戊辰戦争に従軍し戦死されたかたと西南の役で戦死されたかたを埋葬したもので、監守人を置き、国庫より維持修繕費用が支給された墳墓(墓地)です。

先日、編さん室に青森市内の箱館戦争戦死者の墓碑についてのお問合せがあり、資料をさがしたところ、これらの墓碑が明治2年(1869)に建立されてより、今日までの変遷が見えてきましたので、今回はそれをたどってみたいと思います。

以前、平成24年(2012)11月16日のトリビアにありましたように、幕末の箱館戦争の際に青森は官軍の兵站(へいたん)基地として大きな役割を果たしました。近世の青森町の豪商であった滝屋伊東家に伝わる文書「滝屋日記」には、その当時の様子が書かれています。

明治2年春、箱館付近において激しい戦闘が繰り広げられ、4月26日には、負傷した兵士が津軽海峡を渡って青森の町へ運ばれてきました。これらの負傷者は塩町の遊女屋に収容され、カノジと称された私娼たちが看病にあたり、その後も続々と負傷兵が到着するために常光寺に病院を設置し養生させることとしました。

同年9月12日の記述には、箱館方面で負傷し青森での治療の甲斐なく落命した各藩々士や御親兵(明治維新政府の直属部隊)を、神明宮、善知鳥宮、毘沙門堂の社内および寺々へも埋葬しましたが、この頃、上方諸藩では仏法ではなく神道で埋葬しているということで、お寺に埋葬された分の多くを廣田神社へ改葬し、石碑をそこに建てたとあります。明治25年頃の青森町の地図「青森実地明細絵図」(『青森市史』第5巻 産業編(下)附図 昭和33年発行)には、「廣田神社」と「戦死墓」が書かれていますが、当時の廣田神社は現在の市役所南西付近にありました。


廣田神社と戦死墓(『旧市史』第5巻付図「青森実地明細絵図」より)

現在の市役所前の国道(明治26年完成)がまだできていないので、この地図からは正確な場所はわかりませんが、おそらくラ・プラス青い森の付近に廣田神社(明治34年に現在地に移転)があり、その北側の柳町交差点近くに戦死墓があったのではないかと思われます。また、前出の「滝屋日記」によれば、この廣田神社や寺々に埋葬された戦死者の墓所を「招魂所」と呼び、長州藩が岩吉という者に墓守を命じたとあります。

『青森寺院志 続』(一戸岳逸編 昭和10年発行)には、この箱館戦争平定後、箱館総督清水谷公考(しみずだに きんなる)が凱旋式を挙行して戦死者の霊を慰めたとあり、明治5年には廣田神社境内において青森市では初めてとされる招魂祭が行われました。

次回は、この官修墳墓(墓地)が昭和の時代にどうなっていったのかをお話したいと思います。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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