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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第81号(2013年11月1日配信)

箱館戦争戦死者の墓碑 その2(担当:鈴木)

今回は、柳町付近にあった「官修墳墓(墓地)」のその後についてです。

この箱館戦争での戦死者の墓所について、『新撰陸奥国誌』巻第四(明治9年発行)には、廣田神社の北にあり、柵をめぐらし西に鳥居あり、となっていますので、当時は立派な墓所だったのでしょうか。墓碑は、最初16基あったとされますが、その後、遺族が引き取り、昭和9年(1934)には長州藩、徳山藩、水戸藩、越前大野藩、備後福山藩の藩士および御親兵の12基が残っていました。

前回ご紹介した明治25年(1892)の地図には、この場所に「戦死墓」と書かれていますが、編さん室にあるそれ以降の市街図からは、なぜかこの墓地の表記が消えてしまいます。しかし、昭和9年から22年までの地図のいくつかには、ほぼ同じ場所に、再び「戊辰役墓地」の表記が出てきます。


墓地の表記がない市街図
(市史編さん室蔵「実地踏査 青森新市街図」、大正11年)


墓地の表記が復活した市街図
(市史編さん室蔵「青森市街全図」、昭和9年)

実は、この墓地はなくなってしまったわけではなく、人々に忘れられて荒廃していたようで、昭和9年に青森報知新聞社の関精一社長がこれを遺憾とし、有志の義捐を得てここに「戊辰堂」を新築し、落成式並びに慰霊祭を挙行しました。そのために、これ以降の地図にまた表記されたのかもしれません。


三内霊園に移転改葬された墓碑


三内霊園に移転改葬された墓碑

これらの墓碑は昭和20年の青森大空襲でも失われず、昭和21年6月に官修墓地制度が廃止されたことにより青森市に移管され、その後、昭和23年7月に、三内霊園へ移されました。これは昭和13年に着手されたにもかかわらず、戦況の悪化で中断していた青森都市計画の墓地移転改葬事業によるもので、この柳町の官修墓地にあった12基と、正覚寺、蓮華寺、常光寺、蓮心寺の四か寺にあった8基の戊辰役戦死者の墓碑が、三内霊園に移転改葬されました。

移転当時は、そこにこの墓碑について書かれた札が立てられていましたが、現在は特に表示はないようです。場所は三内霊園の売店のあるロータリー南側で、この65年の間に生い茂った樹木に囲まれ、20基の墓碑が静かに並んでいます。これらの墓碑に刻まれた碑文をみますと多くは20代および19歳の藩士・兵士たちで、激動の時代に日本の各地から青森を経由して津軽海峡を渡り戦った若者たちがいたこと、また、彼らに宿や食料を提供し戦死者を供養するなど、青森の人々が歴史の一翼を担ったとのだいうことを改めて思います。

幕末・維新期の青森の様子は、『新青森市史』通史編第二巻に描かれていますので、ここから当時の青森の人々の暮らしを思い浮かべていただければと思います。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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