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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第82号(2013年11月8日配信)

津軽の藍(担当:三上)

木枯しが吹き、時折、霰(あられ)や雹(ひょう)が降ってきて、冬仕度に気ぜわしい時期となりましたね。

10月4日付の『東奥日報』に「青森産藍染め」についての記事が掲載されていました。藍といえば温暖な四国徳島県の阿波藍を思い浮かべ、寒冷地での「青森の藍」というと不思議に思うかたがいるかもしれません。しかし、「青森の藍」は近世からの長い歴史があるのです。今回は、その足どりをたどってみることにしましょう。

弘前藩第四代藩主信政は藩の財政困難な状況から脱却するために新田開発や産業振興を推奨しました。その中のひとつに、藍の生産や藍染の技術移植・拡大もありました。

最初に津軽の藍について出てくる資料は、慶安2年(1649)頃に書かれた「弘前古御絵図」で、この絵図には藍染業者をあらわす「こうや(紺屋)」が描かれていますので、弘前藩が成立した初めの頃から藍染が行われていたことがわかります。

ただ、藍の生産量、染めの技術など克服すべき問題はいくつもありました。例えば、藍の品質・技術向上のために、徳島から技術を導入しました。さらに天保期(1830-43)には、藍染技術を持つ秋田出身者に城下へ移住することを許可し、水準の高い技術の導入を図ることで、藍生産・藍染技術が軌道に乗りました。


藍の花

近世末期になると津軽地方各地で藍が作付され、特に南津軽郡藤崎町は岩木川水系の肥沃な堆積土壌が藍の栽培に最適だったようで、藍の質がよく領内産出量の多くを占めていたといいます。弘前藩では、藍の必要性を認め、物産化を進め、藩内の需要をみたすことは優先的に考えられましたが、藍の本場徳島とは違い、寒冷地ゆえに他藩に移出されるようなブランドにはならなかったのです。

しかし、津軽地方の人々は生活に根ざした必要性から藍や藍染付き合い、藩の奨励などによって技術を高め、こぎん刺し着物などにみられる津軽地方なりの藍の良さを生活の中から引き出していきました。


こぎん刺し着物(東こぎん)


いろいろな藍色に染められたこぎんの身頃


刺し糸も藍で染められている染こぎん着物

そして明治期に入り、インドから安価な藍が入ってくるようになりました。さらにドイツの科学者が藍の色素インジゴの化学合成に成功し、工業的に実用化されたことにより、1900年代から全国的に化学染料が普及し、津軽の藍も徐々に衰退していきました。

大正期でほぼ壊滅した津軽の藍は、平成に入ってから自然の色合いの良さが見直され、復興を目指す動きがみられるようになりました。


藍葉から短期間で作り出した粉末染料


天然染料で染められた藍製品

青森市では、平成15年(2003)弘前大学の舩澤陸郞氏より、簡単に短期間でできる藍染料の抽出等の技術指導を得られることとなり、これを契機として、藍染めを、市名に「青」を持つ青森市の産業として根付かせようと取組みを始め、藍の試験栽培に着手し、市民向けの藍染講習会を開催しました。

翌平成16年には藍染の愛好者が集まって、「あおもり藍工房」が設立されました。また、平成17年には、青森市内の繊維、染色関係の会社の協同により、「あおもり藍産業研究会」が発足、翌18年には「あおもり藍産業協同組合」となり、平成22年には繊維メーカーと共同開発した藍染めのポロシャツが宇宙飛行士・山崎直子さんの船内服に採用されたことで話題になりました。

現在、さらに新たな藍による地域産物の開発や藍染め文化の普及に取り組んでいます。その取り組みを紹介したのが、先の『東奥日報』の記事でした。

※今回の内容は『津軽の藍』(北原晴男監修)、『刺しこの世界―受け継がれた技―』(青森市歴史民俗博物館「稽古館」発行)、『服飾辞典』(文化出版局発行)等を参考にしています。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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