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更新日:2015年6月1日

「あおもり歴史トリビア」第85号(2013年11月29日配信)

江戸時代の庶民の旅―『御国巡覧滑稽嘘盡戯』より 最終章・前編(担当:渡邊)

こんにちは。3月29日の予告編から、4月19日、6月21日とご紹介してきた江戸時代の滑稽本、『御国巡覧滑稽嘘盡戯(おくにじゅんらんこっけいうそつきげ)』による江戸時代の青森の旅―。気候のいいうちに旅のフィニッシュを…と思いながらも、いつのまにか季節は初冬へ。旅の最終章を2週に分けてご紹介します。

寺町の四か寺などを回り、「蓮華寺」の鐘楼堂からの青森の眺めを満喫した江戸っ子の喜次郎兵衛と津軽生まれの弥太八は、その後、浦町を過ぎ、堤町へ。

二人は堤川の大橋を渡り、茶屋町の地蔵尊を目にします。

堤川に初めて橋が架けられたのは、『青森市沿革史』によれば、寛文11年(1671)7月とされており、堤川の大橋は、現在の位置ではなく、「うとう橋」のあたりにあったようです。津軽家文書「青森之図(青森御町絵図)」(17世紀中期と推定)では、そこに「舟場」と記載されており、当時の堤川大橋の下には渡船場のようなものがあったと思われます。

地蔵堂は、この大橋のたもとにありました。『嘘盡戯』では、地蔵尊は石仏で、縁日には夜宮を祭り、「頭巾をかぶせ、顔には胡粉(ごふん:貝殻を砕いて粉末にした白色顔料)を塗って眼と口を描き、異なる模様の衣を着せるなどして地蔵尊を飾って祭るもので、大変面白い。」と紹介されています。

そのような姿に作り上げた地蔵尊は、この地方の特徴なのでしょうか。現在も、青森市内をはじめ、津軽地方のところどころで見られるようで、金木の「川倉地蔵」が有名ですが、胡粉を塗って顔を描き、綺麗に着飾った、戸門の「百万遍の地蔵様」の写真(平成18年撮影)が市史編さん室にもあります。

さて、二人が見た地蔵尊は、資料を突き合わせてみると、これは、現在、うとう橋と旭橋の間にある、「茶屋町延命地蔵尊」と思われ、「地蔵様」と呼ばれて今も地域の人々に親しまれています。


茶屋町延命地蔵尊

「茶屋町延命地蔵尊」は、もともとは堤川上流にあったのが、洪水で流されてきたところを茶屋町の人々が引き上げ、手厚く祀り始めたと伝えられており、幾度かの大火から免れ、「火防の地蔵尊」と称されました。また、昭和20年(1945)7月28日の青森空襲の際、逃げ遅れた住民たちが旭橋の下に避難したものの、火の勢いが強く、いよいよ火が迫ってきたときに地蔵堂が急に炎上し、それによって火勢の向きが変わって、避難していた住民は難を逃れることができ、これを仏恩と感じた人々が、自分の家の復旧を後回しにして地蔵堂を再建したといいます。

橋を渡ると、二人は賑やかな諏訪明神の門前に着きました。現在の諏訪神社なのですが、当時は、たばこ町(現青柳)が堤川で尽きるところに広い中洲が円形に入り込んでおり、諏訪明神はそこに鎮座していました。明治5年(1872)に松森町から出火した大火によって焼失して現在地に遷宮しました。


中洲があった青柳橋付近

諏訪明神の門前では、「名代の飴エ~」「青森名物山川酒是にあり」「それそば切り~」などという声が、参道の両側の店から聞こえてきて、その賑わいぶりがわかります。

ちなみに、当時、青森町には十数軒の造酒屋があり、「山川の酒」というのは名酒として当時の青森の三大名物に数えられていたようです。

さて、いよいよ次回は青森の旅の終着。来週金曜日にお届けします。

【参考資料】『新青森市史』別編民俗、『青い森と堤川』(北の都市と流域を語る会編:昭和60年発行)

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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