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更新日:2015年8月10日

「あおもり歴史トリビア」第123号(2014年9月5日配信)

青森県師範学校の記念碑(担当:村上)

こんにちは。嘱託員の村上です。今回は私が浪打地区を散歩しているときに見つけた石碑を紹介したいと思います。

浪打小学校前から青森県赤十字血液センターへ向かって西に歩いていくと、大きな木のある公園が見えてきます。入口には「青森県師範学校記念碑」という標柱が建てられており、奥に「青森県師範学校之跡」と刻まれた石碑があります。この場所には昭和20年(1945)まで青森県師範学校(昭和18年から官立青森師範学校)がありました。

青森県師範学校の記念碑がある公園
青森県師範学校の記念碑がある公園

公園入口の標柱
公園入口の標柱

「青森県師範学校之跡」の碑
「青森県師範学校之跡」の碑

青森県師範学校は教員養成を目的として明治9年(1876)に設立されました。校舎は新町に置かれ、明治26年に現在の市役所の位置へ移り、浪打地区へ移転したのは大正2年(1913)のことでした。青森県師範学校とともに附属小学校、寄宿舎、農業実習地も置かれましたが、昭和20年の青森空襲で罹災し、弘前市へ移転します。師範学校移転後、跡地は住宅地へと変わりました。

青森県師範学校周辺の地図
青森県師範学校周辺の地図
(昭和11年発行「都市計画 青森市街全図」、市史編さん室蔵)

さて、「青森県師範学校之跡」の碑の字を書いたのは宮川翠雨(みやかわ すいう、本名・武弘、1912-87)でした。宮川は青森県師範学校の出身で、橋本小学校などで教員を務めたあと、昭和16年に上京して書家・鈴木翠軒(すずき すいけん、本名・春視、1889-1976)の門下生となります。

昭和20年1月、宮川は戦火を逃れて青森へ戻り、県立青森高等女学校(のちに青森高校と統合)に赴任します。そして、定年となる昭和48年3月まで青森高校で書道を担当しました。書の分野では昭和42年に日展菊華賞を受賞するなど高い評価を受けています。

宮川翠雨書碑(善知鳥神社境内)
宮川翠雨書碑(善知鳥神社境内)

さらに、宮川は俳句の分野でも有名な人物でした。師範学校時代に高松玉麗(たかまつ ぎょくれい、本名・喜久蔵:俳句結社松濤社〈しょうとうしゃ〉の創立者)、花田哲行(本名・哲幸:造道小学校などの教員を務め、ほそみち句会を立ち上げた人物)の勧めで俳句を作り始め、青森高校では寺山修司から頼まれて文学部の顧問となりました。宮川は「寺山修司さんの思いで」(『暖鳥』昭和59年2月号所載)で寺山との交流を振り返っています。

「青森県師範学校記念碑」は卒業生約1,100人の寄附により、創立100周年にあたる昭和52年に建てられました。記念碑建立実行委員会では碑文の字を宮川に依頼することを満場一致で決定したといいます。除幕式は創立記念日の11月10日に行われ、OBら約200人が集まって母校をしのびました。青森県師範学校の伝統は現在、弘前大学教育学部に引き継がれています。

「青森県師範学校之跡」の碑の背面
「青森県師範学校之跡」の碑の背面
(青森県師範学校校歌)

「青森県師範学校附属小学校之跡」の碑
「青森県師範学校之跡」の碑の手前にある
「青森県師範学校附属小学校之跡」の碑

※松尾正輔『青湾の碑』、宮川翠雨『翠雨雑記』、花田哲幸『句集ほそみち』などを参考にしました。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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