ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第121号(2014年8月22日配信)
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更新日:2015年8月10日
こんにちは!室長の工藤です。
昭和8年(1933)6月、油川町に青森飛行場が完成しました。
昭和10年の油川(『油川町現勢一班』よりトレース)
そして、昨年は空港開設から80年という記念の年で、9月に「旧青森飛行場の歴史を伝える会」が、今はなき格納庫の鉄柱の一部を利用したモニュメントを油川市民センターの前に設置しました。また、『東奥日報』でも9月18日~20日の紙面で「青森飛行場の記憶 油川開設から80年」と題する連載記事を掲載しています。
旧青森飛行場格納庫
一方、青森飛行場については、研究も少なく通史にも多くが語られないために、その存在は希薄なものになっているとの指摘があります(稲垣森太「旧青森飛行場の歴史と現存する遺構」)。これを受けて今回は、青森飛行場の誘致について少しお話したいと思います。なお、青森市の近くに飛行場が設置されることになった理由は、昨年9月6日配信の「あおもり歴史トリビア」第73号をご覧ください。
さて、青森飛行場の候補地について、いくつかの本や論文を見たところ、油川町以外では、青森競馬場(現佃2丁目・3丁目)・雲谷の2か所をあげるものと、これに荒川村の刑務所跡地を加えるものとがあります。ちなみに、最新の研究では、刑務所跡地は候補地に入っていません。そこで、ここでは誘致をめぐる荒川村の動きに注目することにしましょう。
荒川村は誘致に熱心で、当初は大字大別内の18万坪を計画します(『東奥日報』昭和7年8月11日付夕刊)。しかし、これではうまくいかなかったのでしょう、次に大字野木字野尻の刑務所第一農場を飛行場の設置主体である逓信省(ていしんしょう)に無償提供することを議会で決定します。さらに、設置場所の決定が目前に迫った段階で、いよいよ刑務所跡地を提供することに決めます。このように、荒川村は候補地を何度も選定し直してまでも、飛行場を誘致しようとしていたのです。
議会の決議
(市史編さん室蔵、荒川村役場「昭和七年決議書綴」より)
最終的に荒川村はその選から漏れることになりますが、その理由のひとつが「良田を潰すのは政府の本意ではない」ということであったようです(『東奥日報』昭和7年10月3日付)。また、誘致に成功した油川町では、数ある候補地のなかでも荒川村の動向には敏感になっていた節があります。つまり、油川町にとって、荒川村は手強いライバルと目されていたといっていいでしょう。
なお、荒川村・油川町に関する記述で、典拠をあげた部分以外は、市史編さん室が所蔵する行政文書によって執筆いたしました。
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