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更新日:2015年8月10日

「あおもり歴史トリビア」第119号(2014年8月8日配信)

「藤田組通り」の名前の由来(担当:村上)

数年前、秋田県小坂町の旧小坂鉱山事務所を見学した際、私は小坂鉱山を経営していた藤田組のことを知りました。藤田組は藤田伝三郎が明治14年(1881)大阪に設立し、鉱山経営のほか岡山県児島湾における干拓事業などで発展した会社です。この藤田組が青森市の「藤田組通り」と関係があるのだろうかと思っていたところ、青森県立郷土館の島口天氏が「藤田組通り」の名称の由来について論文を発表し、その関係がわかりました。

今回は島口氏の論文を参照しながら「藤田組通り」の歴史についてお話ししたいと思います。

「藤田組通り」は栄町交差点から南北に延びる道です。いつ「藤田組通り」と呼ばれるようになったのか、はっきりとしたことはわかりませんが、昭和11年(1936)に発行された「都市計画 青森市街全図」(市史編さん室蔵)に「藤田組通」と記載があることから、その頃には「藤田組通り」と呼ばれていたようです。

「藤田組通」と藤田組製材
「藤田組通」と藤田組製材
(昭和11年発行「都市計画 青森市街全図」、市史編さん室蔵)

では、なぜ「藤田組通り」と呼ばれるようになったのでしょうか。

名前の由来は、先に述べた大阪の藤田組が設置した青森電錬(でんれん)所という施設にあります。青森電錬所は電気炉を用いて合金鉄を生産する目的で大正7年(1918)に設置されました。合金鉄は鉄鋼の原料で、明治時代には海外から輸入していましたが、大正3年に第一次世界大戦が始まると供給が途絶えてしまいました。そこで、藤田組では大正4年に合金鉄の研究を始め、翌年から広田製鋼所(福島県)での生産を始めています。

電気炉を動かすには大きな電力を必要とするため、藤田組では青森電灯株式会社と電力供給の契約を結びました。必要な電力を安い料金で供給できたことが、青森市に電錬所が設置された理由の一つと考えられます。電錬所は造道字浪打(現在の港町3丁目)へ建設することになり、大正6年12月9日に上棟式が行われました。そして翌年2月7日、ついに合金鉄の製造が始まりました。しかし、同年11月に第一次世界大戦が終結し、需要の減少が見込まれたことなどから、大正9年に電錬所は閉鎖されてしまいます。

藤田組電錬所(右)と電燈会社(左)
藤田組電錬所(右)と電燈会社(左)
(大正11年発行「実地踏査 青森新市街図」、市史編さん室蔵)

電錬所の跡には大正8年10月に設立した藤田組製材所が残りました。この製材所はいつまで存在していたのかはっきりとはわかりませんが、昭和17年に戦時中の木材統制のため青森県木材会社が設立されることから、この会社に統合された可能性が考えられます。戦後、藤田組製材所のあった場所は製材業の荒川産業株式会社となり、敷地には大きなレンガ塀(電錬所の建物の一部)が残っていましたが、昭和43年の十勝沖地震で倒壊していまいました。

国道からもよく見えたという青森電錬所の建物は、藤田組製材所になってからも一部が残り、国道を海手に曲がる道路の目印の役割を果たしていたと思われます。そのため、道路が「藤田組のある通り」などと呼ばれるようになり、やがて「藤田組通り」という呼び名が定着したと考えられます。

※島口天「青森市「藤田組通り」の名称由来」(『青森県立郷土館研究紀要』第36号)、「大正時代の藤田組青森電錬所と東岳石灰岩鉱山」(『青森県立郷土館研究紀要』第38号)などを参考にしました。

問合せ

所属課室:青森市教育委員会事務局市民図書館 担当者名:歴史資料室

青森市新町一丁目3-7

電話番号:017-732-5271

ファックス番号:017-732-5272

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