ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第111号(2014年6月13日配信)
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更新日:2015年7月1日
こんにちは。嘱託員の村上です。5月16日配信の「あおもり歴史トリビア」第107号で旧線路通りを紹介したあと、改めて線路のあった場所を訪ねました。浦町駅跡地に整備された平和公園を散策し、私は園内に配置されたブロンズ像に興味を持ちました。そこで今回は、平和公園にある二つのブロンズ像を紹介したいと思います。
平和公園は地方自治法施行25周年にあたる昭和47年(1972)に着工し、昭和54年3月、公園中央部にシンボルとなるモニュメント「大空のうた」が完成したことにより整備が完了しました。
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さて、二つのブロンズ像とは、公園北側に置かれた「平和の乙女の像」と、南側にある花壇の中央に置かれた「天宇受売命(あめのうずめのみこと)之像」のことです。「平和の乙女の像」は両手に鳩を乗せた女性の像で、「天宇受売命之像」は神話に登場する天宇受売命が天の岩戸の前で舞う姿を表現した像です。
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これらの像はむつ市出身の彫刻家・古藤正雄(ことう まさお:1907-1986)の作品です。小学生の頃、絵を描くのが得意だった古藤は絵描きになりたいと思っていましたが、父親から桶屋・畳屋・菓子屋のいずれかになるよう言われ、大湊高等小学校を卒業後、大正12年(1923)から約2年間、青森市の菓子店・甘精堂で働きました。この青森市での生活の中で、運命を変える出会いがありました。
それは青森地方裁判所で働きながら絵の勉強をしていた棟方志功との出会いでした。棟方との出会いがいつのことかはわかりませんが、棟方が大正10年に設立した美術団体「青光画社(せいこうがしゃ)」に古藤も加わり、一緒に活動するようになったのです。古藤は注文菓子の配達の際に裁判所の棟方を訪ね、棟方は甘精堂の工場を訪れて古藤の仕事が終わるのを待っていたといいます。
大正13年に棟方が上京すると、古藤も大正15年(14年の説もあります)に上京し、彫刻家の木村五郎に師事しました。そして、昭和17年には日本美術院賞を受賞するなど、彫刻界で活躍しました。昭和19年に帰郷してからは上京せず、大湊で創作活動を続けました。
「天宇受売命之像」は青森信用金庫(当時の理事長はのちに名誉市民となる横山實)が創立60周年を記念して古藤に制作を依頼し、市に寄贈したもので、像の原画を描いたのは棟方志功でした。つまり、この像は「青光画社」でともに活動した古藤と棟方が協力して作り上げたものだったのです。
棟方志功「わだばゴッホになる」の碑(撰文:横山武夫、書:千葉聖峰)
さらに、「平和の乙女の像」のそばには棟方志功「わだばゴッホになる」の碑もあります。平和公園は古藤と棟方という二人の美術家をしのぶことができる場所でもあるのですね。
※今回の内容は、甘精堂本店『菓業八十五年』、三上繁敏『四つの碑の物語』、青森県史叢書『近現代の美術家』などを参考にしています。
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