ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第109号(2014年5月30日配信)
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更新日:2015年7月1日
藩政時代、17世紀初めに「青森」の町づくりが始まる直前、弘前藩は西浜街道(弘前から岩木山北ろくを通り日本海沿岸を秋田藩領へ出る道)沿の大間越(おおまごし)村などを含む深浦周辺の町づくりに着手しています。その時、一定期間年貢などを免除の上で、そこに住むことを希望する人々を広く募るという、青森とおなじ方法を採用しています。つまり、海陸の要衝である深浦周辺、そして、太平洋海運を担うために企図された青森、これらふたつの町づくりは、弘前藩の交通路整備・開発という一連の事業のなかで行われたのです。
町づくりは、深浦方面を北村久左衛門、青森は森山弥七郎が担当しました。このうち森山は、「開港奉行」として腕を振るい「青森開港の恩人」(『青森市史』人物編)と評価され、青森市にゆかりのある歴史上の人物としては、いの一番にあげられる人物といってもいいでしょう。
『青森市史』人物編に取り上げられた森山弥七郎
さて、森山の人物評価はともかく、「開港奉行」という職名は少々疑問です。少なくとも、藩政時代に書かれた記録には「開港奉行」という文言はなく、『新青森市史』資料編4に掲載の資料でも「外浜中奉行」とか「惣奉行」と表記されています。ここでは、「外浜中(惣)奉行」という当時の表記を意識しながら、弥七郎と青森町との関係を探ってみましょう。
たとえば、藩政時代以前からの湊町として知られる油川でも、新たな開発が行われます。しかも、これは青森町の骨格ができてから着手され、青森町頭(町年寄)も関わっていることから、弘前藩は青森を核とした外浜開発を進めていたと考えられるのです。つまり、「外浜中(惣)奉行」は、青森の町づくりを含んだ外浜開発を計画的に推進する役割を担うということがその職務と位置づけられるのです。
ですから、森山弥七郎は青森の「開港(町づくり)」に特化した任務を果たしていたというよりも、北村とおなじように、弘前藩の地域開発計画のもと、青森のみならず、外浜という広域の開発担当者であったとみるべきではないでしょうか。
なお、油川の浄満寺の境内には弥七郎の供養碑があり、市の指定文化財となっています。
森山弥七郎の供養碑
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