なみおか今・昔105

町史かわら版(12)

〜浪岡リンゴ・2人の先駆者(明治期)〜

 浪岡町はリンゴの町として全国に名を知られ、収穫量においては町村単位で、全国1位の座についている。町民としても誇れる事である。また、青森県が「リンゴ王国」の名を保っているのは浪岡りんごの影響が大である。
 しかし、ここまで来るにはの幾多いくたの困難や挫折が有った事か、それは計り知る事は出来ない。栽培する者達は日夜、研究・努力を重ね、試行錯誤の上の結果が今日の浪岡リンゴである。

芯下し以前の二段、三段仕立て
芯下し以前の二段、三段仕立て
今日の主流をさす樹型(一階仕立)
今日の主流をさす樹型(一階仕立)

○樹形について
 明治期のりんご栽培は要約すると、模索の時期の初期、病害虫との戦いの中期と集約栽培へ移行する末期とに分ける事が出来る。病害虫に対しての防除法もある程度確立されてきたのは末期であるが、樹形はいまだに2段、3段に枝を配置する段つくりが主流であった。これは樹勢の上部が強く下枝を弱らせ、また、日光も充分当らないために果実も青実が多く、商品価値の低い物の割合が多く出る樹形であった。栽培者、指導者とともに樹形改造を模索していた。
 この時期、野沢のざわ沢の對馬政治郎(明治9年:1876〜昭和29年:1954)はすでに自園において実験、成功していたのである。
 對馬政治郎の著書『りんごを語る』(昭和26年)から、「・・・明治42年10月 外崎嘉七は對馬宅に一泊された。對馬氏いわく「これからのりんごは従来の円錐形式を改め梨のごとく一階仕立(円頭形)にする必要ある」とのべた。對馬氏はす でに3年前盃状仕立とした紅魁5本と国光5本を外崎に見せる。主枝の開張、実の成長ぶりを見せられそうとう心を動かされたようであるが、収量の問題などで反論した。・・・それから3年後に清水村で一階仕立を行い人々をおどろかしたが秋になり効果 のあまりに良好な事に2度ビックリ、5ヶ年で全県で行うようになり・・・」
100年後の現在でも主流をなしている樹形である。りんごの神様と崇められた外崎嘉七(安政6年:1859〜大正13年:1924)の考案した樹形として今日に伝えられている。

○貯蔵りんご
 りんご栽培ブームのあおりで供給過剰ぎみになり、地域消費は限界を迎えていた。価格の下落が見られている時期で、また、鉄道網の発達に伴い販路が遠くなり、りんごの品もちと端境期への出荷等、生産者は色々と貯蔵法を考案、実験を行っていた。明治28年1月23日付けの『東奥日報』に女鹿沢村海老名文八郎の「囲い林檎」という次の記事が見える。
「南津軽郡女鹿沢村海老名文八郎氏培養の林檎園は〔中略〕例年により注意の上其大部分を囲い置きたるに、此の節に至りても少しも風味の替りなく却て美味を呈し居られたるが、数多きこととて少々づつ萎みたるものもありしと云へるが今少しく注意したらんには之を除くを得べく愈々斯くして冬季盛んに売出したらんには相場も宣しかるべく其の利潤も多かるければとて同業者に於て大いに此れを注目するものありといふ」
「浪岡海老名物」と「海老名の囲い物」として広く消費地に名をはせた。実際価格の面でも20斤入り(1斤は600グラム)1月には1円〜90銭、2月には1円40銭〜1円20銭、3月には1円60銭〜1円40銭、5月には1円90銭〜1円80銭と確実に値上りしている。(米価石当り7円16銭)。後に藤崎村富谷元太郎の「雪巻き冷蔵庫」へと移って行く。
 今では貯蔵施設の発達により1年中いつでもりんごが食べられるようになっているが、当時としては大きな功績であった。

【町史執筆委員 奈良岡洋一】

『広報なみおか』平成16年(2004)3月1日号に掲載


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