なみおか今・昔100

町史かわら版(7)

 『浪岡町史』は浪岡町出身で首都圏在住の方々でつくった東京浪岡会(会長野呂妙子)の皆様にもご愛読いただいております。今回、大釈迦出身の斎藤稗太朗(ひえたろう)さんから感想をお寄せいただきましたのでご紹介します。

東京浪岡会副会長 斉藤稗太朗さん
東京浪岡会副会長 斉藤稗太朗さん

〜浪岡町史に触れて〜

 歳を重ねるとともに色々な役がめぐってなかなか落ち着いて読破できません。今回東京浪岡会の事務局長を西村學治君に押し付けて少しは楽になりそうな気がするのでじっくりと味わっての読破はこれから先のことになろう。
 昔を想起するに辻々の石碑やお地蔵さん等など、信仰、宗教への関わりから当時の人のあり方に興味が涌くとともに、今ある人生に連綿と連なって今に至ったと思えば、この先いろいろな環境の変化とともに、あらゆる物象の変わり方にも変化が出て当然であろう。
 人間の一生は宇宙や地球的に見れば砂粒の一つにも満たない一瞬の仮の姿と評されるが、一人ひとりの積み重ねが意義ある記録として後世に伝わっていくことでしょう。縄文を中心に人間の生き方、衣食住に多少の進歩はあっただろうが生まれては死に、生まれては死ぬの繰り返し、生まれ変わり再生を繰り返すと言っても誰もそれを証明することが出来ない。神を作り仏を作り主客従客入れ乱れ摩訶不思議な現象を時とともに当たりまえに消化しながら現在に至っていることは次代にも繰り返しになるわけだ。
 昔といっても今から60数年前、集落の年寄りたちが、村の広場に集まり数珠のお化けのようなものを、摩りながら経というか念仏というかを唱えながら百万遍と称し、夕食後の集いが楽しみの一つとしてご婦人方に継続されていた。ご婦人と言ってもおばあさん達が主だった存在だがその大きな輪の中におじいさんの姿が1人も居なかったことに今気がついた。なぜと思うようになったのは私の認識不足か。
 今回、浪岡町史の写真の1枚によって百万遍を思い出すことが出来たとともに私の同級生の1人の姿を発見し、ああ人生の老役に至れりかと改めて実感すると共に懐かしく拝見した。編集に協力された各集落の方々の中には後輩や先輩の名もあり、元気で頑張ってるんだなあと声援を送らずにはいられません。
 また碑の建立にきざまれた先祖の名を発見し、それぞれの立場で先祖たちも関わりを持っていたと言うことも判り感無量です。信仰にまつわる記述を吐露するとすればやはり60数年前、旧暦7月9日「梵珠山の灯明を見に行こう」と言って登山した。現在では『霊光探索(火の玉探検)』。
 その頃、梵珠山にはお堂があった。集落と梵珠山の中間ほどに釈迦堂と言う地名があり其処にもお堂があった。山頂のすぐ下には寺屋敷と称して平坦な場所もあった。元光寺の齋藤越厳住職(故人)とともに梵珠山への登山が楽しみだった。和尚さんには威厳があり、ありがたいお話を優しく解きながら話してくれたことが思い出として脳裏に刻まれています。
 私の集落は元杉の沢、現在は北大釈迦に変わった。お寺と神社が並んであると言うことは神仏合祀時代の名残でしょう。浪岡町史にも柳久保という地名が時々出現します。
 青年団の活動華やかなりし頃、神社の幟を対馬平吾君(故人)と2人で製作した苦労話があります。墨汁に油を混ぜて書くといいと言うことを集落の長老から聞き及んで始めてみたがなかなか布に浸透せずに苦労した思い出があります。あれから間もなく上京し現在に至るも、あの幟が果して役に立ったのかどうか、今まで失念していた。
 浪岡町史に触れてと言う題を頂きましたが一方的な方向転換、とんだ偶感でした。

御免

『広報なみおか』平成15年(2003)10月1日号に掲載


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