なみおか今・昔98

町史かわら版(5)



今回は町史第4巻(近代・現代編)で文学・文芸関係を担当する鳴海弘子執筆委員を紹介します。


鳴海弘子 執筆委員
鳴海弘子執筆委員

●出身・略歴
 昭和27年(1952)4月浪岡町吉野田に生まれました。昭和50年弘前大学教育学部卒業後、高校教諭として金木高校、木造高校、黒石高校を経て、現在弘前実業高校に勤務しております。

●担当・執筆概要
 浪岡町史編さん事業には稲葉克夫編集委員(町史第4巻【近代・現代編】編集担当)から「文学」の方を担当してほしいとお誘いを受け、町史の中で文学・文化・民謡・演劇・音楽などを担当しています。

●町民に伝えたいこと
 文学・文芸は基本的に人間ひとがまるごと関わるものだ。幸い多くの方々の話を聴くことができた。ぽつりぽつりと調べ継ぎながらの年月。振り返れば文学・文芸は「好き」というこの一語に尽きると確信した。特に昔は、小説家や絵描きは社会的地位が低く、どこの家でも疎まれた。一銭の得にもならないからだ。そういうものにうつつをぬかすと体を動かして働かなくなる。カラポヤミはカマドケシにつながり、どこの家でも忌避された。
 それではなぜ作品を創作しえたのか。やはり「好き」だということに尽きるのである。恵まれた環境や運だけで後世にものが残るとは限らない。
 よく親に反対されたから、貧乏だったから自分の好きな道に進めなかったと言う人がいる。しかし、それはたぶん嘘である。当たっていない。そもそも芸術は、困難不遇を撥ね除ける力が内在していなければやれるものではないからだ。この力が「好き」ということだろう。つくづくそう思えた調査年月であった。
 実際、「好き」というDNAが受け継がれていった例を紹介しよう。浪岡は「山唄発祥の地」である。それに関係した話だ。山唄のルーツを調べた人に成田雲竹がいる。
津軽山唄之碑(北中野・源常原)
津軽山唄之碑(北中野・源常平)
彼はどうしてもルーツを知りたくて警察官をやめ、調べた(何かにつき動かされて、金にもならないことに、時間と金、労力をつぎこむという人はいる。これも例の「好き」だというパワーのなせる業だ)。ある日浪岡近在で名の知られた唄い手、山崎おみ(明治生まれ・五本松、現在羽黒平)の家を訪ねた。
 このおみバアさんを、孫の(須藤)圭助は、お腰のようなものの上に前掛けをしめている姿で記憶している。以下の話は圭助の母チサ(大正生まれ)から伝え聞いたという。
 裏の墓所(現在移転されて別な場所)の石に雲竹は腰をかけ、おみバアさんから山唄を習っている。節々を区切り、繰り返し教えてもらう。山唄一つのために、そのことで金や名誉につながるものでもないのに、何度も足を運び、教えてもらう。好きでなければやれないことだ。黒石に嫁いだ娘チサ(圭助の母)も声よしで歌がうまかったという。りんごをもぎながら歌うチサの声はその息子の圭助に受けつがれた。毎晩、浅瀬石川を渡り、当時黒石に住んでいた雪田竹栄(細野出身)のもとに通って教えを受けた。まだ津軽三味線や民謡が脚光を浴びることのない時代だった。圭助22、23才のころである。須藤家の祖母はそういう世界に足を入れる圭助を恥じ、悲しんで蔵で涙ぐんだという。今では弟子も全国から集まり、定期公演も数多く行っている。
 環境や時代がどれほど抑えつけても「好き」というただそれだけで続いていく。根っこに「好き」があるのだ。なお、チサから「好き」というDNAを貰った圭助は、現在後進の育成に力を注いでいる。

『広報なみおか』平成15年(2003)8月1日号に掲載


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