なみおか今・昔96

町史かわら版(3)

〜明治・浪岡の村〜

 町史をまとめるにあたっては、文献史料、実物実地調査、体験者からの聞取り等の膨大な記録資料の中から、精選推敲せいせんすいこうしなければならない。
 時代とともに多くの人が有名無名に関わらずそれぞれの務めを果たして過ぎ去って行く。
 現在町内に建立されている先人の功績顕彰碑、遺跡や共同墓地に一際高く建っている日露戦争以来の兵士の戦死碑は多数にのぼる(詳しくは、町史別巻U・町史第4巻【平成16年12月刊行予定】に記載)。
明治天皇御駐輦之地碑(明治14年) 大釈迦
明治天皇御駐輦之地碑
(明治14年) 大釈迦
 明治5年(1872)4月、旧弘前藩士青森県権大参事杉山龍江は、「奉請北巡建言」と題した天皇の東北御巡幸を請願する長文 の建白書を捧呈している。これらがもとになって、明治天皇の東北御巡幸は、明治9年(1876)と明治14年(1881)の2度にわたって行われた。明治14年の2回目の東北御巡幸は北海道を回った後、9月7日に青森港(現聖徳せいとく公園)に上陸、弘前へと鳳輦ほうれんをすすめられた。北白川宮能久きたしらかわのみやよしひさ親王、有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王をはじめ、供奉員360余名といわれ、まだ鉄道が開通していなかったため、車駕しゃが、ご乗馬での巡幸であった。
 大釈迦村に入られた天皇は、御小休所にあてられた鎌田傳十郎宅で御休みになり、そのあと浪岡村の御行在所あんざいしょに定められた当時の富豪平野喜八郎宅に入られ、ご昼餐ちゅうさんに使用した御膳水が北中野の千代の井であったという。
 浪岡村からは、北中野、本郷、高館と山側通りを進み、黒石に向われ、八幡崎やはたさき村(現尾上町大字八幡崎やわたざき)を通って和徳から弘前中心部に入った。沿道には近隣の村人が集まって出迎えたという。
 この女鹿沢村を通らないコースに、進取的で後の初代村長海老名文八郎が南津軽郡郡長大道寺繁禎だいどうじしげよしに不満をぶちまけ一波乱あったという。
 明治天皇も地方の実情を直に御覧になり、またそれを迎える民衆は天皇を目の当たりにすることで新しい時代を実感することになった。先導する騎兵の軍服、西洋式の馬車、菊の紋章、そして沿道に揚げられた日の丸も民衆にとって は目新しいものだった。
 明治22年(1889)4月1日内務大臣訓令により、市制、町村制が施行され、新しい市町村が誕生した。県内では初めて弘前市が成立した。当時地方では、自治体の運営が困難であり、数箇村の合併による強化が必要であった。青森、黒石、鰺ヶ沢、八戸、三戸が町制を施行し、165箇村が編成されている。
 浪岡町域は21箇村(大字)から次のように変革した。
 浪岡村は村役場を大字浪岡に置き、初代村長は阿部文助。
 野沢村は村役場を大字沢に置いた。村名は吉野田と沢の一字ずつをとって名づけた。初代村長は、木村又一。
 女鹿沢村は、村役場を大字女鹿沢に置いた。初代村長は海老名文八郎。
 大杉村は村役場を大字徳才子に置いた。明治27年に高屋敷に新築移動した。村名は大釈迦と杉沢から一字ずつとって名づけた。初代村長は工藤栄太郎。
 五郷村は大字本郷に村役場を置いた。村名は五箇村の合併を五郷と表現して名づけた。初代村長は古村兵作。
 なお下石川地区は、昭和31年(1956)浪岡町に編入合併されて大字となるまで、北津軽郡七和村の大字であった。

【町史執筆委員 北畠昭智】

『広報なみおか』平成15年(2003)6月1日号に掲載


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