なみおか今・昔91

なみおか町史コラム(21)

〜明治中期以降の学校教育より
教育勅語きょういくちょくご御真影ごしんえい

 明治維新後、国民の意識や価値観が大きく変化し、その精神的な拠り所を失って、「忠臣愛国」「仁義忠孝」などの道義が退廃したことを心配した明治政府は、国民の道徳意義を確立するために、明治23(1890)年10月30日に「教育勅語」を発布した。そしてその翌年にはその謄本と御真影を「校内一定ノ場所ヲ撰ビ最モ尊重ニ奉置セシムベシ」と訓令、当初は職員室や講堂の金庫などに保管されたが、明治43年ころから、校庭に石造り、土蔵造り、あるいは鉄筋コンクリートの「奉安殿ほうあんでん」を建てて大切に納められるようになった。そのデザインは神社風が主流で、生徒は登下校時にはその前で最敬礼しなければならなかった。
 黒石市出身の口語詩人鳴海要吉(1883〜1959:母親は浪岡町の平野家出身)は、明治43年に北海道のある寒村の小学校長として赴任したが、社会主義者か危険思想家と疑われ、明治44年12月23日に、自分の学校に御真影を奉迎ほうげいするに当り、ありもしない不敬の罪を着せられ免職となった。それは郡役所から馬橇ばそりにて御真影を運ぶ際の奉戴ほうたいの姿勢に問題があったという理由からであった。
 このように勅語や御真影の管理不行届を理由に引責させられた校長は、全国的には相当数の例をみるが、わが浪岡町の各校の記録にはそのような例は見られない。
 細野小学校の沿革史には、明治26年1月6日に御真影を拝戴はいたいし盛大なる式典を挙行しているが、その際に拝戴の歌を作成し、全校生徒が合唱したと記されている。

大正期の奉安殿(野沢小学校)
大正期の奉安殿(野沢小学校)
  花は桜木人は武士
  我等は二葉の武士なるぞ
  今より堅く志し
  義勇を忘るること勿れ
  頃は明治の二十六
  一月六日の朝ぼらけ
  南郡細野尋常の
  小学校に賜わりし
  皇帝の大御影
  お迎え奉まつる喜びに
  枯木も為に花咲きて
  光は包う日の御影
  曇らぬ景と仰ぎ見て
  勇み進めよ諸共に

 以上のように教育勅語と天皇、皇后の御真影奉戴には粗相のないよう気をつかった様子が窺われるが、特に勅語は修身しゅうしんなどの授業を通して子どもたち全員に暗唱を強いるようになっていた。また式典などにおける奉読に際しては、校長はフロックコートなどで正装、真新しい白手袋をつけ、来賓の前で読みまちがえると進退問題になりかねず、大汗をかいたり声がふるえる校長もいたという。子どもたちは奉読ほうどく中は首を垂れ、上を向くことは許されなかった。

【町史執筆委員 平野守衛】

『広報なみおか』平成15年(2003)1月1日号に掲載


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