なみおか今・昔90

なみおか町史コラム(20)

〜弘前藩境を訪ねて〜

 明治維新期の浪岡を調べている中で、度々史料に現れる「碇ヶ関口」に興味を覚え、夏休みを利用して弘前藩の藩境を訪ねてみた。弘前藩には、出入国を監視するための口留番所が碇ヶ関(碇ヶ関村)、野内(青森市)、大間越(岩崎村)に設置されており、「津軽三関」と呼ばれていた。
 また、南部との境、黒石領狩場沢(平内町)にも番所を設け、守りを固めていた。かつての馬門村(野辺地町)との境にある藩境塚「四ツ森」は現在県史跡に指定され、保存されている。
碇ヶ関番所(写真1)
碇ヶ関番所(写真1)
「辰八月碇ヶ関口江出張日記帳」(写真2)
「辰八月碇ヶ関口江出張日記帳」(写真2)
 さて、弘前藩は成立当初から、鰺ヶ沢、深浦、岩崎を通り秋田藩領に至る西浜街道を重視していた。特に、大間越口が中世以来の重要な道路であった事や碇ヶ関経由の羽州街道の整備が不十分だった事などの理由で、3代藩主信義まで参勤交代に使われていたようであるが、4代藩主信政の寛文5年(1665)には、碇ヶ関口通行に変えている。ほかにも松前藩主の通行も記録されており、大間越口留番所は、江戸時代初期には重要な役割を果たしていた。現在大間越字山科の高台に関所跡の標柱があり、福寿草公園と共に保存整備されている。また、南部と津軽の境界線である狩場沢番所跡付近には、双股川を挟んで津軽側2基、南部側2基の藩境塚が現存し、高さ3.5m、直径10mのマウンドは一見に値する史跡である。国道4号馬門番所跡から直下に見える場所にある。
 最後に、津軽三関の中で最も通行量の多かったのが、碇ヶ関口である。弘前・黒石両藩主の参勤路として、また、吉田松陰・伊能忠敬・菅江真澄・高山彦九郎など多くの人びとの往来があった。碇ヶ関口留番所(関所)は、矢立峠番所、舟岡番所、碇ヶ関番所(写真1) から成り、町奉行を配置し、弓矢、鉄砲、槍などの武器を備え、旅人や物資の往来を監視した。今を遡ること150年前、わが浪岡にも、弘前藩が奥羽越列藩同盟から脱退し官軍に加わり、風雲急を告げた明治元年(1868)8月、碇ヶ関口を警護するために、急遽招集され出陣した農兵隊員たちの姿があった。その様子が、浪岡町大字吉内の成田家に残る古文書の中に書かれている。
 「辰八月碇ヶ関口江出張日記帳」(写真2)は、成田林太郎が綴ったもので、幕末動乱期の農民の様子が如実に窺える。浪岡とは遠く離れた藩境であるが、維新の変革期にあっては、いずれにもかかわりをもつことになるのである。

【町史執筆委員 赤平智尚】

『広報なみおか』平成14年(2002)12月1日号に掲載


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