なみおか今・昔87

なみおか町史コラム(17)

〜謎解きの愉しみ〜

 青森県史編さん中世部会で実施した昨年秋の福島県三春町歴史民俗資料館収蔵史料調査のさい、1冊の和綴本に注目させられた。表題も作者名も記されていないが、明治の中ごろ、浪岡季令が浪岡の家譜を調べるために写しとった史料集であった。
 三春浪岡家は、津軽浪岡御所が天正6年(1578)に滅びた後、秋田を頼って行った御所の一族北畠慶好を祖先として、代々秋田家から秋田の名字と「季」1字を賜り、藩家老職を世襲してきた家系である。浪岡季令は、その嫡流であるが、明治の世になり、賜姓が行なわれず、浪岡を苗字とした段階で、「浪岡」の持つ意味と家譜の研究に没頭した。そのさい座右においたのが、この史料集であった。
 そこには、始祖北畠慶好の嫡子季姓、季姓嫡孫季珍、季珍嫡子季賢ら先祖たちによる浪岡家譜研究の成果も収録されていた。
三春町浪岡家文書
三春町浪岡家文書(三春町歴史民族資料館所蔵
写真提供:青森県史編さん室)
 明治15年(1882)に浪岡城跡に建てた北畠古城跡碑の碑文作成のさい、内閣大書記官金井之恭が三春浪岡家の系譜諸書も参考としたのに、この碑文に浪岡季令が異議を唱えたことや、それ以後も、三春浪岡家譜の記す浪岡御所系譜の解釈をめぐり議論されていることは、周知の通りであるが、それらの謎を解く鍵もこの史料集に秘められていた。
 天文年間(1532〜1555)に浪岡御所のもとで作成されたという「津軽郡中名字」の異種一本を採録していることは、とりわけ注目させられる。合わせて263か所の地名と112名の人名を系譜説明を伴いつつ記しながら、天文年間の津軽六郡政治情勢について浪岡御所支配の優位性を軸に主張する、というさまが如実に記されている。鎌倉役三郡・京役三郡という表記などから、ややもして胡散臭い史料と評価されがちであった当該記録を新たに見なおす契機となる。しかも明治期に浪岡季令が採録したのでなく、近世初期に北畠季姓がすでに利用していたさまをも刻みこんでいた。
 このような史料が紹介されることで、同時代史料が乏しいために、文献的には幻の御所とさえ見做されがちであった北畠浪岡氏の実態に迫りうる新たな可能性も出てくる。
 しかし、史料とは、作成した当事者の主張を明示していても、それが我々の知りたい歴史的事実であるとは限らないという限界をもつ。史料にしても、それを解読し立論した先覚たちの論著にしても、記述が即事実とはならない。主張している点とその典拠を見極めながら、真相に迫ろうとしても、ひとつの謎解きは必ず次の謎を生む。そこが歴史学の飽くことのない愉しみなのであるが、日本史上での北の惑星とも評される浪岡御所にまつわる問題などは、大きな愉しみなのである。

【町史執筆委員 遠藤巖】

『広報なみおか』平成14年(2002)9月1日号に掲載


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