なみおか今・昔86

なみおか町史コラム(16)

〜相撲王国青森の謎〜

 早くから青森県が相撲王国と呼ばれ、隆盛を誇ってきた土壌は、一体何であったろうか?
 「まわし一つあれば出来る相撲が、貧乏県に最も相応ふさわしかった、それが五穀豊穣を祈願、感謝する神事から宮相撲へと結びつき大衆の支持を得、最高の娯楽として繁栄していった」とか、「半年近くも雪に閉ざされた暮らしが、忍耐、堅実、粘り強さの根性を培い、しかも、雪道を歩くことで自然と足腰の強い体質が作られ相撲という格闘技とマッチした」などの理由があげられる。
 津軽の相撲史は、いまから400年以上も前の天正年間(1573〜1592)、津軽為信公の時に初めて史料に現れてくる。『永禄日記』によると天正10年(1582)7月14日から「白銀に相撲あり、近年は相撲がなく、初めて見るということで群衆をなした」とある。白銀(村)は、現在の浪岡町銀のことで、久方ぶりに相撲が行われたものと思われる。
 3代藩主信義(2代藩主信枚のぶひらの長男)の時に初めてお抱え力士が登場、相撲が急速に繁栄するようになった。そして4代藩主信政(信義の長男)のころになると、「相撲は恥を知り、義を重んずる業なれば武道に叶い、武道に等しきもの也」と一層相撲道の確立に努めた。
 信政はことのほか相撲を好み、それまで弘前には川端町の土淵川河原に小さな相撲場があっただけであった。貞享元年(1684)4月15日、弘前城内西のくるわに初めて土俵を作ったばかりでなく、御旗奉行の岡田帯刀たてわき房治を相撲奉行に任命し、お抱え力士の選抜制度を作り、力量の優れた者には江戸上りを命じたほどの熱の入れようだった。
 また、毎年時期を定め、弘前、青森、鰺ヶ沢、板柳の4か所に若者を集めて相撲大会を開催し、成績の優秀な者をお抱え力士として採用した。農工商の二男、三男からは出世の糸口として歓迎された。強い津軽の基礎がガッチリ築かれたのであった。
 お抱え力士は「御旗の者」と呼ばれ、いざ戦の時は「軍夫ぐんぷ」として武器や食糧の運搬、それに使い走りなどに従事し、戦がない時はとびとして城内の修理に携わっていた。このころ城内には帯刀の許された者しか立ち入ることができなかったが、力士たちはナタを長くした特別の脇差しの帯刀で城の出入りを許された。もちろん、相撲を取ることが本業で、他藩の力士との対抗戦には藩主の名誉もかかわっていたからこそ必死だった。
 当時弘前藩では、相撲を取る際、力士は10日前から精進し、毎晩七ッ時から身を清め、岩木山を拝み、それから支度を整えて場所に臨むことになっていた。
 こうして大衆の娯楽として定着していった相撲は、藩主が代々が相撲好きということもあって毎年のように相撲大会を開催した。

【町史執筆委員 今靖行】

『広報なみおか』平成14年(2002)8月1日号に掲載


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