なみおか今・昔82

なみおか町史コラム(12)

〜近代地方演劇について〜

 明治維新以降、日本は貪婪(どんらん)に西欧文化を吸収してきた。軍制しかり、政治体制しかり、産業構造しかりである。「文化」も例外ではなかった。
 現在、学校教育の現場で、文部省のカリキュラムに則って行われている芸術教育は「美術」と「音楽」である。さらに、国語科教育で断片的に取り上げられる「小説」および「短詩系文学」も入るだろうか。それは明治以降変わっていない。そこに何故「演劇」がはさまっていないのか。地方演劇の明治からの流れを考えるとき、この問題は決して避けては通れない。
 大正時代に小山内薫、岸田國士という日本の近代劇の土台を作った人物は、ヨーロッパへの留学という出来事を演劇活動の初発点に置いた。それまでの日本のパフォーミング・アーツ(舞台を表現の場とする芸術)は、雅楽、能楽(能+狂言)、文楽、歌舞伎である。言うまでもなく、明治維新当時、歌舞伎や文楽こそ商業的成功を収めていたが、能楽においてはその庇護者である武士階級の没落とともに凋落の一途を辿っていた。
 大正13年(1924)、小山内薫が築地小劇場を興したとき、日本はすでに日清・日露戦争を経験し、列強の端に位置される国家とな っていた。
 小山内、岸田がヨーロッパから持ち込んできたのは近代演劇だけではなかった。政治思想もまた彼らとともに入ってきたのである。「個」と「共同体」が、根底に「個人主義」というもうひとつの別な観念に支えられて、対立・止揚してきた西洋の歴史を、あたかも髪の毛を金髪にし、つけ鼻をつけることで西洋演劇を輸入しようとした感性が受け入れてしまった。
 近代日本演劇は、良かれ悪しかれここを嚆矢(こうし)とするのである。そして、地方の演劇は政治・経済の中央集権化過程と同じように、常に中央の動向に左右される芸術ジャンルとなったのである。
 その時々の為政者は「演劇」を反社会的なプロパガンダを行うものと見なしてきた。従って、そのような芸術は決して学校教育のカリキュラムとはなり得なかった。東京から地方に近代演劇が入ってくるときには、必ず「新しい人民の思想」も一緒に入ってきたのである。しかも、近代劇が選び取った地方での劇場は、キャパシティーが1,000人規模の学校の講堂や体育館や公民館であった。観客が1,000人規模の劇場では、細やかな俳優の演技や表情は見えない。つまり、そこでは人間の感情ではなくイデオロギーを伝えるしかなかったのである。
 浪岡町に近代演劇を伝えた人物は、秋田雨雀である。彼もまた小山内・岸田が西洋から持ち帰った演劇思想を体現する人物でもあったのである。

【町史執筆委員 長谷川孝治】

『広報なみおか』平成14年(2002)4月1日号に掲載


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