なみおか今・昔81

なみおか町史コラム(11)

〜寛政の藩士土着どちゃく蝦夷地えぞち警備〜

 江戸時代後期の紀行家で有名な菅江真澄が、寛政7年(1795)11月1日に浪岡を通った際、次のようなことを書き留めています。
 「藩士たちは、当今のなみたいていでない世情に対処するために、帰農を熱心にうったえたので、藩主もそれを心よくうけいれられて、その治めておられる領地の各所を与え、あるいは藩士が各自つてをもとめて、みな、くもの子が散ったように、ここの野原、あちらの山里におのおのの家をつくり、耕地をもとめた。むかし親しく語りあった間山祐真も、竹が鼻という村で農民にまじって住んでいる」(「津軽の奥」『菅江真澄遊覧記3』東洋文庫平凡社126頁)。
 これは、弘前藩が実施した寛政改革最大の政策であった藩士土着(在宅)策の一端を示すものです。この政策の本質は、藩士を農村に土着させて、百姓から直接年貢諸役を徴収できるようにし、藩士の経済的自立を図ることで、困窮した藩財政を立て直そうとしたところにあります。
諸組在宅者数資料(1795年3月調査)
ラスクマン(左端)一行の図(県立郷土館蔵)
寛政4年に根室に来航したロシア使節
ラスクマン(左端)一行の図(県立郷土館蔵)
 土着策の展開は、天明4年(1784)〜寛政2年(1790)の下級藩士への開発奨励期、寛政2年〜同4年の準備期、寛政4年〜同10年の展開期、寛政10年〜享和元年(1801)の政策廃止・城下への引き上げ期の、大きく4段階に区分されます。真澄が浪岡を通った時期は、土着策の展開期にあたり、村の中に藩士たちが居住していたことに言及しても不思議ではないほど、一般的なものとなっていたわけです。
 右表は、寛政7年3月調査の「御家中在宅之族村寄」(弘前市立図書館蔵)をもとに、田舎庄について組ごとに在宅者数と在宅村数を示したものです。浪岡町域など生産性の高い村々が、主な土着地となっていることがわかります。
 ところで、帝政ロシアの南下政策がこの土着策実施を踏み切らせた大きな要因であったことが、近年明らかになってきています。18世紀後半から本格化するロシアの南下政策によって、幕府は北方警備の必要性を認識するようになり、蝦夷地(北海道)を直轄化して、弘前藩などの北奥諸藩に警備を命じます。蝦夷地警備の最前線に配置された弘前藩は、財政面はもちろん、従者の問題などを解決しなくてはならなくなり、ここに土着策が断行されることになったのです。
 今回の町史では、蝦夷地警備のダイナミックな展開の中に藩士土着策を位置付けながら、浪岡町域に与えた影響と、その実態について言及したいと思っています。

【町史編集委員 瀧本壽史】

『広報なみおか』平成14年(2002)3月1日号に掲載


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