なみおか今・昔79

なみおか町史コラム(9)

〜江戸時代の仏像と浪岡町〜

 仏像というと、美術全集に載っているような平安時代や鎌倉時代の仏像を想像されるかもしれません。一方、浪岡町を含む津軽地方で仏像が大量に作られるようになったのは江戸時代からです。同じ東北でも青森県、特に津軽地方では中世にさかのぼる仏像が極端に少ない特徴がありますが、この理由については、まだ十分に明らかにされていません。
 江戸時代には幕府や藩の寺請制度(寺院に今で言う戸籍制度を請け負わせた)を受けて、寺院が村人の生活に大きく関わるようになり、その数も大幅に増えました。津軽の主な寺院も多くがこの時期に整備され、仏像の数も増加したのです。
写真1-玄徳寺本尊「阿弥陀如来立像」
写真1
玄徳寺本尊「阿弥陀如来立像」
頭部は後で補修したもの
写真2-仏像下付証文
写真2 仏像下付証文
 江戸時代の仏像の特徴は上方や江戸の工房で大量に制作され、形状は整っているものの、作者の個性や地域的な特色には乏しいとされています(これは美術史的なもので、信仰の対象として大切にされていたことにはかわりはありません)。さらに幕府や諸藩の統制によって寺院の系列化が進んだ結果、津軽でも、九州でも似たような仏像が全国に配られました。
 浪岡町で仏教伝来の流れを示すのが、玄徳寺のご本尊の阿弥陀如来立像です(写真1)。延宝2年(1674)に本山の京都・東本願寺から下付された際の証文が残ります。このような証文は鰺ヶ沢町などほかの浄土真宗のお寺でも見ることができます。ほかにも、宗祖親鸞上人像・七高祖像・聖徳太子像等が寺院に掲げる標準的な仏画として指定され、証文も発行されていました。浄土真宗は、戦国時代の一向一揆に見られるように、教団としての統率力が強い宗派で、仏像・仏具においても一定の規格に基いて下付されたことが窺えます。
 他宗派でも、浄土真宗ほどでないにせよ、本寺との結びつきは強く、例えば西光院の金光上人坐像の厨子は、幕末に江戸の芝増上寺から伝来したものと伝えられています。
 一方、江戸時代には、規格化した仏像と対照的に、円空などの旅僧、地元の僧侶などによる個性豊かな像もあり、浪岡町域でも見ることができます。詳細は来年3月に刊行される『浪岡町史』別巻Tをご覧ください。

【町史執筆委員 中野渡一耕】

『広報なみおか』平成14年(2002)1月1日号に掲載


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