なみおか今・昔75

なみおか町史コラム(5)

〜天明の飢饉直後の村絵図〜

 本州の北辺に位置するわが津軽は、よく知られているとおり藩政時代には、幾度となく凶作・飢饉に襲われました。特に、浅間山の噴火による天候不順が原因と考えられている天明の飢饉は、大きな被害を弘前藩領全体に及ぼしました。
 天明3年(1783)は、春先から寒く8月は真夏にもかかわらず、綿入を着て歩かなければならなかったほどでした。藤崎・平賀・黒石などは水田の稲に若干実が付いている村もあったが、ほとんどの水田は青立ちのままで、彼岸になっても穂が出ない状態であった。五所川原付近の田では、200人役(十三町歩程)余りで(しいな)が40俵程度しか収穫できなかったという。そのため、弘前藩全体では、人口25万人に対して、死者が約8万人、32%という惨状であった。
 町史のため、細野の「雪田家」より大量の古文書が提供されました。天明の飢饉に関して注目すべき史料が3点ありました。1つが、写真の寛政3年(1791)「細野・相沢両村絵図」です。寛政3年は天明4年より8年後で、飢饉の直後の村の状態をよく示しています。この絵図には60軒の家が描かれていますが、このうち28軒には「死絶明屋敷」か「死絶」の文字が書かれています。つまり、天明の飢饉によって、一家全員が餓死したものと考えられる家が、28軒描かれています。
天明の飢饉直後の村絵図
天明の飢饉直後の村絵図
 またそのほかに、天明3年「浪岡組相沢細野村切支丹改帳」(調査は天明2年であった)も見つかりました。「切支丹改帳」とは江戸時代の戸籍のようなもので、その家がどの寺の檀家であるのか、一家に何人いるのか、男女の内訳などが細かく記載されているものです。これによれば、天明2年の相沢・細野両村では男が170人、女が149人いたことが確認できます。
 これと、先ほどの「細野・相沢両村絵図」の「死絶明屋敷」の家と比較すると、全員が餓死した家の人数を調べることができます。細野村では、男が45人、女が41人、相沢村では男が28人、女が24人、両村では合計138人の被害がでたことが確認できます。43%の被害です。しかし、この方法では生き残った家の餓死者の数は確定できません。おそらくは、実際は50%を越える被害があったものと考えられます。これは、藩全体の32%を大きく越えるもので、山間地である相沢・細野地区は凶作の被害が、ほかの平野部の村々よりも大きかったことを示しています。従来、山間部は、山菜などを容易に手に入れることができるということから、飢饉に強いと考えられてきました。しかし、この「雪田家文書」の資料によって山間部ほど飢饉の際は被害が大きいことを確認できました。詳細な分析は町史の本文でおこないたいと思います。

【町史執筆委員 佐藤光男】

『広報なみおか』平成13年(2001)9月1日号に掲載


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