なみおか今・昔74

なみおか町史コラム(4)

〜学制頒布以前の浪岡の教育〜

 学制頒布(明治5年<1872>)以前の教育は、どこの地域でも庶民教育としての寺子屋が盛んであった。
 寺子屋の起源は、室町後期といわれるが、著しく普及したのは江戸時代の後期、18世紀以降である。その教育内容はいわゆる“読み書き算盤”で、中核となったのは習字であるが、字を上手に書くだけでなく、それを通じてものを読むということを教え、これを手習いと称した。また、師匠に対する礼儀作法や、生活上のしつけまで行われていた。教科書としては“往来物”という名で呼ばれる書物が使われ、教訓・社会・語意・地理・歴史・理数などの各分野にわたっていろいろな“往来物”がつくられた。寺子屋の師匠は町年寄や隠居と呼ばれた人々、庄屋、僧侶、神官、武士階級であった。
寺子屋風景一渡辺華山「一掃百態図」より
寺子屋風景一渡辺華山「一掃百態図」より
 さて、わが浪岡町は昔から肥沃ひよくな耕地と山野に恵まれ経済的にも豊かな上、黒石、弘前にも近いということもあって、庶民教育は相当充実していたようである。紙面の都合もあり、詳細については記すことができないが、故前田喜一郎(きいちろう)翁が生前に口述された旧浪岡村の寺子屋についての記録の中から抜粋して紹介したいと思う。
 「浪岡校の前身は寺子屋でありますが、甚だ不完全なものでありました。最終のものは明治3年頃までありまして、八幡宮に阿部宰記という神官が居って、なかなかの人格者で、この方が読み書き算盤を教えて居りました。生徒は15、6名でありました。それから前田佐五郎という弘前の地侍格の人がやはり、今の役場(註、当時〈昭和10年代〉役場は茶屋町にあった)の炭小屋の隣に開き、20名内外の生徒がありました。
 仲町では猪股新三郎という人がやりました。これは今、私の隣家になっており14、5名でした。下町と古道の方は私の先代喜兵衛がやり、20名内外でした。大抵寺子屋は家の庇廂ひさしとか庭でやったが、八幡宮は小屋で教えておりました。生徒は脚4本の低い机と文庫を持っていて、その中に用具を納め、下には草紙を入れたのです。習字が専門でありましたから、1日の大部分は手習い、その他は極く少ない時間にやり、ほとんど休みなしに文字を書いたものであります。以上の寺子屋は明治2年乃至3年頃までありました。」
 以上の前田翁の口述記録から、当時の浪岡の教育の一端を窺い知ることができたと思う。浪岡にあった寺子屋の詳細については、町史の本文で紹介することとする。

【町史執筆委員 平野守衛】

『広報なみおか』平成13年(2001)8月1日号に掲載


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