なみおか今・昔54

浪岡北畠氏の足跡(9)

〜船越と北畠氏〜

 14世紀も半ばになると、北畠氏の属する南朝の勢力は衰えました。奥羽地方でも北朝に移る豪族が多くなっています。この時代の日本は、相続争いが激しく、不安定な社会だったのです。南朝と北朝は一族の対立の中で、それぞれの派閥の拠り所として必要でした。争乱が続く中で、浪岡地域の歴史に関係する浪岡御所北畠一族の先祖は、どのようにしていたのでしょうか。
船越館
船越館(高さ15m×長さ180m×80m)
船越半島
船越半島(くびれた所に二重堀がある)
 浪岡に入るまでの北畠氏の行方は、ようとしてわからないのです。南部氏の保護のもとに過ごしていたと推定するほかありません。浪岡に入ったのは顕信の系統という説があります。また「南朝編年紀略」は元中3年(1386)に「波岡」の文字を載せ、「親統」が活動したことを記しています。
 これに対し津軽氏が編んだ『津軽一統志』は、北畠顕家の子孫が浪岡入りしたと書いており、この本の附巻に載っている「津軽郡中名字」は、顕家の没後船越にいたと記しています。船越は三陸海岸に面した集落です。現在の行政区域は岩手県下閉伊郡山田町。集落内の海蔵寺には、裏山から発見された正和4年(1315)銘の板碑があり、「又三郎」という名が刻まれています。地域の研究者はこの人物を、北畠顕家のもとで活躍した船越氏の指導者と考えています。ともあれ、船越の地は、中世以来の由緒ある所なのです。
 船越には館跡が2か所あります。1つは海蔵寺と海岸の間にある高所で、「船越館」と呼んでいます。もう1つは船越半島の頸部にあり、「船越御所」跡という見方があります。30年前に調査に行った時は、船越御所の方が北畠氏の住んだ所と教えられました。しかし現在では、船越館の方に船越御所の標示がされています。「もともと北畠氏に関する記録や伝承はない、津軽の方から話題になり、作られた歴史だ」と語る村人もいます。
 三陸の美しい海、“マリンパーク山田”もあります。岩手船越駅から徒歩15分、宮古からバスの便もあり船越館の下に停留所があります。(次回は袰綿落居)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成11年(1999)12月1日号に掲載


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