なみおか今・昔50

浪岡北畠氏の足跡(5)

〜顕信と宇津峰城〜

 今回は顕家の弟、北畠顕信の活動の跡を巡ることにしましょう。顕信は直接浪岡城に関係ありませんが、その子守親が浪岡に入り川原御所の先祖になったと考える説があるのです。北中野にある「伝北畠氏墓所(二)」は守親の墓と伝えられています。また、これとは別に守親は大納言に任ぜられ、浪岡御所を称したという見方もあります。
 北畠顕信は顕家の死後、陸奥介鎮守府将軍に任ぜられ、多賀城の回復を図りました。しかし北朝方の勢力は強く、拠点を宇津峰(うつみね)城(福島県郡山市と須賀川市の境界)に移し、正平8年(1353)5月の落城まで頑張りました。南朝の勢力は次第に衰えますが、顕信は落城後10年ほど奥羽地方の確保に努めました。晩年の顕信は吉野に帰り右大臣に任ぜられ、天授6年(1380)に没したと伝えられています。
宇津峰城
宇津峰城▲ と 山頂の記念碑▼
宇津峰城山頂の記念碑
 史跡宇津峰城は、標高677mの山城です。霊山城のように広くはありませんが、急な崖に囲まれた要害です。上部には20m四方の土塁や物見台があり、すばらしい展望が開け記念碑も多くあります。
 宇津峰城の見学は、東北本線須賀川駅から埋平(うつだいら)行のバスがありますが、本数が少なく便利とはいえません。終点から山上まで70分ほどかかります。マイカー利用の場合、中腹にある神社まで行くことができますから歩くのは20分位、しかし足まわりはきちんとした方がよいと思います。
 顕信の遺跡は山形県内にもあります。出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)の山ふところに囲まれた立矢沢城もその1つです。もっとも、この城の位置は東田川郡立川町内というだけで、対応する遺構は確認されていません。地理的にみて、顕信は羽黒の山伏とかかわりを持っていたと推測されます。
 日本海に面した飽海郡吹浦町には大物忌神社があり、顕信が南朝の勢力拡大を祈願し、社領を寄進した文書が残されています。羽後本線の吹浦駅から徒歩12分ほどです。(次回は天童丸伝説)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成11年(1999)8月1日号に掲載


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