なみおか今・昔49

浪岡北畠氏の足跡(4)

〜北畠顕家の戦死〜

 延元2年(1337)8月、霊山城にいた北畠顕家は、建武政府から離反した足利尊氏を討つため、征西の途につきました。
 この年の12月、鎌倉を落とし入れた顕家は、翌年3月摂津の阿倍野(大阪市)で尊氏と戦いました。そして5月、高師直(こうのもろなお)の軍と石津(堺市)で対戦し、討死したのです。時に21才、華やかではありましたが、あまりにも短い一生でした。戦場は石津川をはさんだ辺りと伝えられています。
 討死の7日前に顕家は、後醍醐天皇に政策の見直しを奉上しています。その内容をみると、武将として有能だっただけでなく、政治家としても優れていたことが分かります。
 石津の古戦場は阪堺電気軌道の石津駅か、南海電鉄の石津川駅から行くのがよいでしょう。紀州街道の「太陽橋」を渡ると、左角に「此附近北畠顕家奮戦地」と刻んだ標石と五輪塔があります。五輪塔の地輪には、「源顕家公」「南部師行公」の名が刻まれています。もっとも、古い石塔ではありません。
石津古戦場、供養塔と記念碑
石津古戦場-供養塔と記念碑
阿部野神社
阿部野神社
 北畠顕家については、大阪市阿倍野区内にも見学地点があります。その1は北畠親房・顕家を祀る「阿部野神社」です。明治15年(1882)1月の創建で、別格官幣社に列せられています。霊山神社(福島県)や北畠神社(三重県)とともに、北畠三社として重視されていました。境内にある北畠顕家の銅像は、霊山神社のものと同じ鋳型で造られたと聞いています。
 阿倍野区内の北畠氏遺跡めぐり第2ポイントは、「北畠中央公園」にある顕家の墓です。もっとも、墓というより記念碑的な存在です。江戸時代の儒者・並川誠所(なみかわ せいしょ)の提唱で、享保年間(1720ころ)に造立されました。墓所を囲む玉垣の前にある標石「北畠顕家卿墓」は、三春町(福島県)の浪岡具雄が寄進したものです。
 阿部野神社への足は阪堺電気軌道天神ノ森駅から7分、北畠中央公園は神社から歩いて10分程の距離にあります。なお、今回あげた3地点はいずれも自動車での参拝には向きません。(次回は顕信と字津峰城)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成11年(1999)7月1日号に掲載


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