なみおか今・昔41

ふるさとの写真を読む(10)

 今回は、北中野の金光上人の塚の絵葉書をよみましょう。
 金光上人は鎌倉時代前期に、念仏−浄土宗を東奥に広めた僧といわれています。金光上人の生まれは筑前国(福岡県)、13才の年比叡山に登り、厳しい修行を続けました。20年間下山しなかったと伝えられます。しかし、延暦寺での教えは、彼を満足させませんでした。争乱と凶作に苦しむ末法の時代の庶民を、教義が難しく、腐敗した旧仏教は救うことができなかったのです。
 金光上人は“南無阿弥陀仏”を唱えると救われる、という浄土宗の教えに入ってゆき、やがて法然と出会い、師と仰ぐようになりました。そして念仏布教の旅にでたのです。正治2年(1200)のことといいますから、源頼朝が死んだ翌年にあたります。
昭和初年頃の金光上人の塚、絵葉書
写真① 絵葉書(昭和初年ころ)
現状の金光上人の塚、写真
写真② 現状(平成10年)
 金光上人の旅は、苦労の連続でした。ある夜阿弥陀如来が上人の夢枕に立ち、「外ヶ浜(青森湾岸)に行きなさい。そこで逢うことができるでしょう」と告げられたのです。
 そのころ、外ヶ浜のある川から“夜な夜な光物がでる”という話があり、旅先でそれを聞いた上人はその川に行き、川底から阿弥陀如来を発見したのです。これが蓬田村を流れる阿弥陀川の伝説です。川のほとりには浪岡の方々により記念碑が造立されています。
 金光上人は、阿弥陀如来を背負い梵珠山に登り、布教の道場を開いたといわれます。年代的に混乱はありますが、浪岡北畠氏も援助したといいます。その後、上人は五本松に庵を結び布教を続けたと伝えられます。
 金光上人の死は建保5年(1217)のこと、遺言により北中野に墓をつくり、行岳山西光寺を建てたといわれます。弘前築城にともない、西光寺は弘前に移されましたが、地域の人々の熱意により、江戸時代後期に、今の西光院を建てることが許されました。
 ところで、金光上人の塚が整備されたのは昭和初年のこと。当時の絵葉書と現在の状況(写真②)を比較して下さい。出来れば現地に行き、江戸時代後期の石碑を見学してほしいものです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成10年(1998)11月1日号に掲載


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