なみおか今・昔28

石造文化財が語るもの(10)

 前回は「伝北畠氏墓所2」に関連する「守親の碑」について話しました。今回は同じ北中野にある「伝北畠氏墓所(一)」について述べたいと思います。
 この墓所には五輪塔(ごりんとう)が散在するほか「北畠累代墓(きたばたけるいだいのはか)」と刻まれた石碑があります。五輪塔群は室町時代後期の造立と推定されていますが、完全なものはなく、かなり風化が進んでいます。また造立の年代は、浪岡御所北畠氏の活動と結びつくと考えられています。なお、五輪塔群を描いた明治10年代の絵が残されていますが、変化の激しさに驚かされます。
「北畠累代墓」の碑と五輪塔の現状
「北畠累代墓」の碑と五輪塔の現状
明治10年代の五輪塔群
明治10年代の五輪塔群
 この石塔群の傍には立派な石碑があります。高さ173cm、幅39cm、奥行28cmほどで、石碑の正面には三条実美(さんじょう さねとみ)の筆による「北畠累代墓」、裏面には浪岡北畠氏の入部の過程と石碑造立のいきさつが、金井之恭(かない ゆきやす)により記されています。三条実美は明治維新の際に活躍した公家で、石碑造立の項、政府の頂点にありました。金井之恭は内閣大書記官として活躍し浪岡と緑の深い人物です。なお石碑の造立には地元の阿部文助、下沢保躬(しもさわ やすみ)らの尽力があったと見られます。「北畠累代墓」碑は金井之恭の文が「明治十五年八月」と記していますから、それからあまり隔らない時期の完成と考えられます。明治15年は西暦1882年、それから110年後の現在、五輪塔の変化だけでなく、この石碑の風化も確実に進んでいます。
 ところでこの墓所は昭和15(1940)年2月、浪岡城跡の史跡指定と同時に史跡に仮指定されています。しかし残念なことに昭和32年に指定は解除されました。太平洋戦争後の皇国史観の否定、史料面からの裏付の難しさ、それに五輪塔の破壊と風化が原因と推測されます。昭和55年浪岡町は、これらの石塔を町の文化財に指定し、環境の整備や遺構の保存に努めています。しかし、戦中・戦後の文化財に対する無策と無関心は、五輪塔群の姿を変えてしまいました。五輪塔は浪岡の歴史を語りかける手掛かりを持っていたと思います。町史編纂の中で残された石造文化財を再調査し、現状を後世に伝えるよう努力しています。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)10月1日号に掲載


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