なみおか今・昔26

石造文化財が語るもの(8)

 今回は切り口をかえて、浪岡町内で見られない石造文化財の語をしましょう。
 浪岡から本郷を回り黒石に行く道筋には、高館や安入の入口、長谷沢神社大鳥居横などに、「追分石」があります。『左○○右△△』のように方向を刻んだ道標です。長谷沢神社入口大鳥居横の追分石は県内最古、正徳4年(1714)の造立という貴重なものです。浪岡は幹線道路の交差するところ。追分石が多く残っていてもおかしくありません。しかし、町域には追分石が見当たらないのです。
 文久元年(1861)に、弘前藩主は領内を視察しました。その時のコースを記した「御道割明細書」は、増館村の北端や浪岡村中央に「追分杭」があることを記しています。追分石は江戸時代後期に寺社参詣の人々のために造立したものが多く、費用も僧侶や村人の信仰心に頼っていました。一般の道路には木製の標識が建てられたようです。浪岡地域には大勢の信者が集まる寺社がなく、石も手に入れにくかったと、推測されるのです。
恐山街道の丁塚石(19丁)
恐山街道の丁塚石(19丁)
恐山街道の丁塚石(24丁)
恐山街道の丁塚石(24丁)
 信仰心と結びつく交通標識といえば、恐山街道の「丁塚石」が頭に浮かびます。むつ市田名部から恐山地蔵堂前まで、一町(約100m)ごとに設けられ、参詣者はこの石を数えながら峠道を歩きました。江戸時代末期、文久2年の恐山千年祭を前に寄進され、新道開通後現地に移したのです。昭和45年(1970)には、失われた石の補充が行なわれました。
 造立当初の碑は58基残されていますが、大口の寄進者、福山(松前町)天屋善兵衛、江州日吉(滋賀県)の辰巳屋松兵衛らに混じって、「十九丁」の石には「津軽大釈迦村伝十郎」、「二四丁」には、「津軽大釈迦村高橋金之丞」の名が刻まれています。いずれも安政6年(1855)の造立です。
 天屋善兵衛は柳久保神社境内の小祠に石灯籠を寄進した人物です。石灯籠と丁塚石の造立は交換条件だったのかもしれません。
 また、浪岡地域の恐山信仰を知る手がかりにもなります。町史編纂は町内だけでなく、周辺からの研究も大切なのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成9年(1997)8月1日号に掲載


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