なみおか今・昔18

町史研究余録(18)

〜浪岡村あれこれ〜

 大豆坂(まめさか)道沿いの浪岡・五本松・王余魚沢(かれいざわ)3か村は町村制施行により浪岡村(昭和15年町制)を作りました。役場は浪岡。明治24年(1891)の戸数は265戸、人口1,880、こじんまりとした新村でした。
 浪岡村の戸口はその後増加を続け、明治43年には376戸、2,557人に達しています。しかし、明治30年代に限ってみるとあまり伸びがありません。
 話はちょっと変わりますが、浪岡村を中心に四方に伸びる道路の改修は、町村制施行のころからしだいに進みました。そして乗合馬車が青森・弘前・黒石方面に運行されるようになりました。浪岡は中継地としての恩恵を受けたのです。明治26年10月8日の「東奥日報」は乗合馬車について、運行時間が守られないという乗客の不満や、その裏に乗客を長く茶屋で休ませ利益をあげていることがある、と報じています。
明治24年7月22日付「東奥日報」記事
明治24年7月22日付「東奥日報」記事
浪岡の商店街の繁盛を伝えている
 しかし、明治27年の奥羽線の開通は乗合馬車に打撃をあたえました。1日3往復の汽車は、茶屋町で休む客の数を激減させ、商店や旅館、運輸業者は不況に見舞われました。
 浪岡集落は元来商工業者が周辺の集落に比べて多く、明治42年には専業も含めて96戸もありました。
 仲町には既設の郵便局のほか、黒石銀行浪岡支店が営業を始めています。明治30年のことでした。なお、王余魚沢では石油掘削事業も進められています。
 しかし、諸産業の中で最も大きなものは農業でした。明治時代中期には、稲作のほかりんごの栽培も行われています。明治42年の浪岡村には2,450本のりんごの木がありました。稲作の間に養蚕が行われていたことも忘れられません。明治25年には蚕糸会が組織され、技術改良に努めています。
 明治時代後期の浪岡村の戸数や人口は、このような経済事情を背景にゆるやかに増加したのです。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)12月1日号に掲載


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