なみおか今・昔12

町史研究余録(12)

〜郡区町村編制法の実施〜

 『新撰陸奥国誌』にみられた大区・小区制は、明治11年(1878)制定の郡区町村編制法により改められました。この法律は府県会規則・地方税規則とともに三新法さんしんぽうと呼ばれています。これらの規則により、町村は自治体として認められ、今まで地域の名称にすぎなかった郡は行政単位になりました。
 大区・小区制は村人になじまなかったこと、維新後の土地制度や税制・徴兵令・学制などで農民の不満が高まり、末端部の支配を強化する必要があって改正されたのです。このころ浪岡地域でも入会地いりあいちをめぐる集落間の対立が激しくなっていました。
明治19年に測量がはじまった20万分の1の地図
明治19年に測量がはじまった20万分の1の地図
 新制度では村ごとに戸長が選出されました。小さな集落では数か村が連合して戸長をおくことが許されました。戸長は村民を代表するとともに、政府の末端行政官であるという2つの性格を持っていました。戸長役場は戸長の私宅に設けられることが多かったようです。なお、明治17年(1884)からは県令(後の県知事)が任命する官選制になりました。
 このころ自由民権運動が激化する一方、松方財政とよばれる超緊縮政策により不況が続き社会不安が広がりました。県令の支配力を強める必要がでたのです。
 明治10年代の後半の行政区画を野沢地区を例にとり説明しましょう。沢・銀・郷山前・吉野田の4村は組合をつくり沢に南津軽郡第四組戸長役場を設けました。地方制度は明治10年以後もたびたび変わっていたのです。(次回は旧五ヵ町村の誕生)

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)6月1日号に掲載


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