町史研究余録(8)
〜大区・小区制下の浪岡地域〜
版籍奉還から廃藩置県へ、明治維新後の政治は目まぐるしく変わりました。
明治4年(1871)の地方制度改革では「戸長」の制がとられ、庄屋の中から有力者が戸長に任命されました。翌、明治5年には県の下に「大区」を設け、その中をいくつかの「小区」に分けました。この制度を「大区・小区制」と呼んでいますが、区の名称は地名を使わず、郵便番号のように数字で表しました。高屋敷村の場合、田舎庄浪岡組から2大区1小区高屋敷村に変わりました。
青森県は10の大区に分けられました。明治9年まで岩手県の県北地方も青森県に含まれていたのです。なお県庁は青森に、支所は五戸に置かれました。また、大区ごとに大区役所が設けられています。浪岡地域は第2大区と第5大区に分けられており、大区役所は第2大区が黒石に、第5大区役所は五所川原にありました。浪岡町で第2大区になったのは次の村々です。
柳久保村、大釈迦村、徳才子村、長沼村、高屋敷村、杉沢村、浪岡村、五本松村支村(羽黒平・松山・板橋)、中野村、王余魚沢村、吉内村、本郷村、相沢村、細野村支村(二股・上・目倉石・一ツ森)。
一方、下之切通りの集落は第5大区に入り、1小区に増館村、十川村、目鹿沢村、佐野村、赤茶村、松枝村、銀村、杉村、
樽沢村、三好村、郷三前村、吉野田村などの村々が、6小区に下石川村が属しました。
この制度は明治11年(1878)郡区町村編制法まで続きました。そのころ青森県は『新選陸奥国誌』を編んでいます。次回からはこれに見える村々の姿を紹介しましょう。
【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】
『広報なみおか』平成8年(1996)2月1日号に掲載