なみおか今・昔7

町史研究余録(7)

〜御郡中村名書上帳〜

 前回は「藩律」に記されている浪岡地域の事柄を紹介しました。今回は、浪岡に藩の「倉府」(御蔵)があったことや、行政区域についても触れてみます。
 藩の御蔵は文化10年(1813)の絵図から下町の南側にあったことが分かります。行政区域は、津軽を3郡に分けており、浪岡地域は田舎郡に含まれていました。
 それでは、浪岡地域には、どのような村があったのでしょうか。文化10年の「御郡中村名書上帳」(国文学研究資料館蔵)には、弘前藩領内の802か村が29組(小国新田を含む)に分けられています。
 「浪岡組」は浪岡・五本松、上十川・赤坂・三嶋・高館・堤館・竹鼻・二双子・本郷・吉内・中野・相沢・杉沢・王餘魚沢・徳才子・高屋敷・大釈迦・細野・長沼・柳久保・山里の計22ヵ村から構成されていました。竹鼻・二双子など現在の黒石市域も、浪岡組に属していたのです。最後の山里村は、大釈迦峠旧道ぞいにありました。
御郡中村名書上帳の一部
御郡中村名書上帳の一部
 一方の「増館組」は16ヵ村。増館・水木・目(女)鹿沢・下十川・赤茶・佐野・松枝・杉・銀・沢・三好・郷三前・吉野田・福館・富柳・久井名館の16ヵ村からなっていました。福館村以下は現在常盤村になっています。なお下石川村は「飯詰組」に入っていたのです。
 これらの村は自然集落を基礎に形成され、庄屋(農民)を中心に運営されました。各村は米に換算した生産力により上村・中村・下村にランク付けされていました。
 年貢米は村単位にまとめて、各地の御蔵に納めさせたのです。藩では各組に代官(武士)を置いて、庄屋を支配しました。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成8年(1996)1月1日号に掲載


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