なみおか今・昔1

町史研究余録(1)

〜天和の四日町村絵図〜

 今回中世の館に寄託された「五本松沙汰山文書」には、多くの絵図が含まれています。その中には天和4年(今から311年前)に作られた「四日町村」の絵図の写本があります。この絵図の原本は、青森県庁からでた火災で焼けてしまいました。明治時代に土地の訴訟の証拠書類として写されたものなので、縮小されていますが、貴重な絵図と考えられます。
 葛西善一編集委員は「四日町村」は今の北中野。浪岡城に近く交通の要衝にあり、人や物資が集まる土地です。四日町村という地名からも中世には「定期市」が開かれていたと推測されますと話されていました。
311年前に作られた「四日町村の絵図」
▲311年前に作られた「四日町村」の絵図
 また、絵図の制作について「津軽4代藩主信政の時代には、土地の調査が実施されました。いわゆる『検地』の準備のために作られた絵図で、藩政の基礎資料として、明治に入るまで使用されました。裁判の証拠書類として、使用されたのはそのためでしょう」と説明されています。
 写真が小さくて見にくいと思いますが、右下にある 「四日町村」の中を「吉内村」に向かう「海街道」が通り、その南側には「御蔵屋敷」や枝村の「中野村」北側には「山道村」 「柳町村」 「荒田町村」があります。山道村には寺が、荒田町村の北には「西光寺屋敷」の文字が見えます。
 「諸辺地川」の先には、 「玄上寺林」があり、大きな木が数本描かれています。 今も残る「源常の大イチョウ」は、この中の1本なのでしょうか。
 耕地には位置や等級、耕作者の名前も書かれています。ちなみに四日町村の庄屋は次郎左衛門、戸数は122戸(現在は378世帯)でした。
 なお中野村と改称されたのは貞享4年(1867)の検地のときと考えられています。

【浪岡町史編さん室長 佐藤仁】

『広報なみおか』平成7年(1995)7月1日号に掲載


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