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更新日:2017年10月27日

スタッフコラム【平成29年度第2号】

子ども権利擁護の底流を流れるもの!

1 自分の「魅力」「強み」「資源」を紡ぎだす旅!
『出前講座』に呼ばれる機会が多くなってきました。
 私の他に、沼田徹弁護士、小林央美弘前大学大学院教授の三人の擁護委員がそれぞれの専門分野や経歴を生かしながら受け持っています。沼田弁護士は、もちろん法律や人権について精通していますが、「法」の視点を超えて、逆境にある子どもたちへの「暖かい眼差し」があります。小林先生は、学校の風土・文化や子どものメンタルヘルスに詳しく、現場経験に裏付けられた親や教師に対する「きめ細かい配慮」があります。
 私は心理臨床を続けてきましたので、お役に立てることは、子どもの権利侵害の底流を流れる基本的な人間関係や集団力動に焦点を当て、一人ひとりに潜んでいる活力や可能性を湧き出させること、つまり「エンパワーメント」のスキルや工夫を提供することだと思っています。「コミュニケーション」「対人関係」「集団適応」「ストレスマネジメント」「集団の活性化」などのテーマについて、理論や理屈を紹介するのでなく、実際に身体を動かして『考えるな、感じろ!』の体験型のワークショップを行っています。
 というのも、子どもの権利擁護委員のもとには、児童虐待・体罰・いじめ・対人トラブルなど、子どもの権利を侵害する深刻な事案が持ち込まれます。そこで感じるのは、個別の『被害者支援』や『加害者更生』とともに、一つは、重大事態に至らないような予防的活動、二つ目は、所属する集団・グループ・組織・コミュニティの凝集性・健康度を高める活動が必要だということです。いわば、日頃から、組織の目標に向かってお互いに理解し協力し合う「集団凝集性」の高いコミュニティを形成することが重要だということです。
 経験的に、虐待されてきた子どもや、大事にされてこなかった子どもは、自尊感情や自己肯定感が低く、さらには、将来への希望や展望を持てないため「努力することは自分が苦労するだけだ」「どうせ成功せず、無駄に終わる」と思っています。相手を尊重すること・大切にすること・相手に敬意を払うことは、自分にとって「損なこと」「無益だ」と感じています。相手の話をへたに聞いていたら、自分が混乱するばかりなので、薄々自分にとって必要なことだと感じても、スルーするか耳を塞いでしまいます。そういう振る舞いをすることで自己を防衛しています。
こうした子どもは、当然、子ども達の間でも浮き上がってしまいます。職員室の会話の中でも「疲れる子」「言うことを素直に聞けない子」など、いわば「問題児」として頻繁に登場してきます。私も学校の管理職ですが、職員室で子どものネガティブ情報が飛び交っている学校は、集団としての健康性・創造性・凝集性を疑わなければなりません。
言い方が少し抽象的ですが、基本的に、自分を大事にする人は、他者も大事にします。自分を好きになれない人は、他者も好きになれません。「他者の悲しみ」を「自分の悲しみ」とすることもありません。逆に、自尊感情・自己肯定感・自己効力感が醸成されている人は、多少の不利益は許容し、柔軟な心で自他ともに優しくできます。他者を貶める狡猾・不遜な行為もしません。無意識の内に、他者へのサービス提供は一方的なものではなく「双方向的なもの」であることや、さらには「自分の利益に繋がる」「いつか自分にフィードバックされる」ことを知っているからです。
 そんなことを念頭に置きながら、最近では、相手に対して敬意を払うこと、感謝すること、そして言葉で表現することを主眼に、実践しながら学ぶ出前講座を行っています。

2 一つひとつの事例を通して学ぶ子どもの権利擁護!
 子どもの権利擁護委員の活動は、はじめに「子どもの人権」「子どもの権利」という固有のコンセプトがあって、それぞれの事例を、その物差しに合わせようとしたのではなかった気がします。一つひとつの事例に深くかかわりながら、人権や権利という「懐の深い概念」を深めてきた感じがあります。
人は誰でも「幸せに暮らしたい」「楽しく生きていきたい」と願っています。しかし、残念ながら、その願いが叶わない子ども達がいます。私は、かつて児童虐待を扱っている児童相談所に長く勤務しておりましたので、そういう子ども達をたくさん見てきました。
心身の虐待によって半身不随(寝たきり)になった子ども、体中痣や傷や火傷でいっぱいの子ども、放任・放置されて親の愛情から見放されてきた子ども、精神的に大きなダメージを受け未だにトラウマに支配されている子ども…苛酷な状況の中で、なんとか生き残ってきた子ども達をたくさん見てきました。なかには、生まれてから、一度も幸せな気持ちを抱くことなく、死んでいった赤ちゃんもいます。
本来、子どもは、親やまわりの人たちの期待と愛情をもって誕生し、毎日をのびのびと暮らし、自分らしく豊かに成長し、未来に向かって歩んでいく存在です。誰もが、幸せを享受して生きていく天賦の権利を持っているはずです。 
食べることに事欠いた時代とは違って、現代の豊かな社会は、そうした子どもの素直な「願い」や「夢」を叶えてあげるくらいの許容力はあるはずです。子どもの生命と健康、夢や希望、子どもにとって基本的な権利の保障を図ることは、大人の大きな責任です。
児童虐待の事例ほど明確なものではなくても、私たちのまわりには、子どもの幸せや権利を侵害するエピソードがたくさんあります。たとえば、体罰、いじめ、差別、無視、孤立、仲間外れ、悪口雑言、疎外、DVや親の争いの目撃、過大な競争、階層化など…。また、成熟の時代だからこそ生まれてくる微妙な「息苦しさ」「苛立ち」「窮屈さ」「不自由さ」「余裕のなさ」「過敏さ」といったものもあります。
IT化が象徴するように社会は着実に進歩していますが、人間関係を中心とした重苦しい不可視のストレスはむしろ増大してきている気がします。そのことが、時には、身体症状、不登校、ひきこもり、自損・自傷行為、嗜癖、暴力、非行・触法行為となって顕在化してきています。
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3 底の見えない孤独を感じたら…!
身の回りで起こる様々な出来事を、自らの力で乗り越えていくことは、子どもの成長のためにとても重要なことです。逆境を切り抜けることで、必要な「生きる力」や「自尊心」を獲得し、自分をエンパワーメント(人が本来持っているすばらしい生きる力を湧き出させる)していきます。
しかし、人は、時に、自分一人の力ではとても解決できない困難な出来事や、どうしようもなくやっかいな事態に直面する時があります。「手に負えない」「立ち向かうことなど無理」という圧倒的な窮地の場面はあるものです。
自分一人の力だけでは解決できないと直感した時は、「大人」や「社会」の力を借りて、解決することも、極めて有効な方法です。大人にサポートを求めることは、生き延びるためには、とても有力な方法なのです。
いつも子ども達に向かって言っているのは、「人に助けを求めること」「時にはそこから逃げ出すこと」は、これからの人生を安全に生きていくためには、極めて実効性のある有効な方法だということです。なにも恥ずかしいことはありません。どうぞ、自分の力だけでは解決できない、自力ではコントロール不可能だと感じた時は、遠慮なく、私ども子どもの権利擁護委員をはじめとして、まわりの大人を頼ってください。それは、決して弱くてダメなことでも、「自尊心」を損なうようなことでもありません。むしろ、それができる人は、勇気と決断力のある「強い人」です。
これは、単に、大人が全面的に問題を解決してくれるということを言っているのではありません。大人に話すことによって、精神的な安定を得て潜在的な力を発揮できるようになり、長期的な視点や広い視野で物事を認識できるようになって、自分自身で、現実的で効果的な行動を選択できるようになるからです。まさに、エンパワーメントです。
一方で、大人の側も「覚悟」をしておくことが必要です。子どもは「自分の思いをきちんと受け止めてくれる」「最後まで私を見捨てることはない」という確信がなければ、まず打ち明けることはありません。子どもとの日常的な関わりの中で、「自分を最後まで守ってくれる」「この人は安心して信頼できる」という感覚を共有しておく必要があります。
子どもは、意外と、身近な「親」や「担任の先生」などには「弱さ」や「弱み」を見せないものです。そうは言っても、子どもはチラチラと「苦境のサイン」「SOS信号」を発していることが多いものです。それに気付かなければなりません。例えば、それらしい文章が発見されるところに置かれている、別のカタチ・内容で話かけてくる、身体症状を出してくる、いつもと違う行動や態度でシグナルを発する…などはよくあることです。その時、大人は「面倒なことに直面することになるかもしれないが、今こそが正面から取り組まなければならない時だ。」と直感しなければなりません。そういう覚悟や認識が、その後の行く末を決めている気がします。

4 子どもの権利擁護の仕事は「何でも屋」かつ「職人仕事」です!
子どもの権利相談センターに寄せられる相談も、最初から核心を突いてくることは少ないものです。「自分にとって役に立つかしら?」「信用できるかな?」「相性はどうかな?」というテスティングから始まって、少しずつ門戸を開けてくることは珍しいことではありません。
子どもの権利相談センターは、相談者からお話を聞いてそれに助言するという形の決まり切った「定食」を出すのではありません。個々の相談者のニーズや状況に合わせた「アラカルト(一品料理)のメニュー」をお出しします。生活人としての素直な感性・感覚を大事にしながらも、プロフェッショナルとしての役割や使命も忘れないようにしています。
「子どもの権利擁護委員」は、日常的に相談に応じる3人の「調査相談専門員」とタッグを組んで、子どもの気持ちに寄り添いながら、関係者と調整を図り、問題の解決に取り組んでいます。
相談者の了承のもと、子どもの心情を代弁し、当事者に対し助言を行ったり、子どもの関係者に対する「働きかけ」「あっせん」「仲介」を行ったりします。当事者間に入って、相互理解を深め、子どもにとって最善の解決を目指して、いわば「関係者間の調整活動」を行っているのがほとんどです。
実際の相談でも、お互いの主張を理解し、お互いの感情や利害を調整して、より良いあり方&より良い関係を探っていくという仕事が多いように感じます。いわば当事者間でうまくやっていけるよう「Win-Winの関係(双方に得のある良好な関係)」を構築していく地道な作業が続きます。
子どもの権利擁護委員の仕事とは、この「曖昧さ」「困難さ」に付き合うことなのかもしれません。

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5 誰でもが自らを救う「何か」を持っている!
 「人権」や「権利」というと、「権利を侵害する人」がいて、一方で「侵害される人」がいるという単純化された構図を思いがちですが、実はそんなに明確なことではありません。「悪に立ち向かう正義の味方」になりたいのですが、そんなに颯爽としたものではありません。
例として適切かどうかわかりませんが、水戸黄門・遠山の金さん・暴れん坊将軍などの時代劇のように明快な「勧善懲悪」の構図は多くないように思います。それぞれに正義の確信があって、それを相互に主張し合っているというのが実像に近いものです。
『鬼平犯科帳』『仕掛人藤枝梅安』を描いた池波正太郎は「良いことをしながら悪いことをする」「盗人にも三分の理」といった人間の矛盾や不条理を描いていますが、実際にも、清濁併せ持つというのが市井の普通の人間像ではないかと思います。昔から、歌舞伎・能などでは、単純な善悪だけでは捉えられない不合理な人間の世界が描かれています。「分かっていても一線を超える」「情念に揺り動かされて悲劇を繰り返す」「脆く儚い夢を見る」など、建前だけの話ではない、今なら世間から非難される人間模様は珍しくもありません。
ちょっと難しい言い方をしますが、多くの事象、特に人が営む事象は、むしろ「原因」と「結果」の間の「一対一対応の単純な因果関係」では説明できないことがほとんどです。因果関係は「原因⇒結果」がキレイに成立するような関係のレベルですが、相関関係は何らかの関係がある・関係が深いと程度のものです。因果関係と相関関係を混同しないことが大切です。
子どもを含めて人間の営みは、複数の要因が相互に関連し合って、全体のシステムとしてなんらかの傾向や、特徴のある振る舞いや様相を見せています。単純な法則に還元して、「○○のせいによる」「誰々の所為で」などといった「単純化した理由付け」は、感情的にはスッキリするかもしれませんが、真実からは遠くなると考えています。事実を追求する「困難さ」「不確実性」を回避している気がします。
我々が学校の教科で学ぶ世界は、原因と結果がはっきり分かる「単純系」がほとんどです。長い時間をかけて、我々の頭には「単純な思考パターン」が拡散されています。しかし、算数では1プラス1は2であっても、人間の社会では1プラス1は3にも4にもなります。時にはマイナスになることだってあります!?
人の営みは、「単純系」ではなく「複雑系」という所以です。複雑系とは、物事は数多くの多面的な要素で構成され、それぞれの要素が相互的かつ複雑に絡み合い、連鎖しながら変化するシステムになっているという考え方です。
特に、様々なリスク要因が時間をかけて複合的・重層的に絡み合っている場合は、すんなりとは解決できないことが多いものです。重いリスク要因がネットワークのように絡み合っています。一つひとつのリスク要因が、大きくなったり、小さくなったり、さらに、引っ張り合ったり、遠ざかったりして、絶えず変化・変容しています。相談の過程では、二重三重に絡んだ糸を粘り強く解きほぐす作業が続きます。
心理臨床では特にそうです。たとえば、頻繁に暴力をふるう子どもがいたとします。確かにその子は立派な「加害者」ですが、心理臨床では、その子自身が「被害者」だという見方もします。実は、親に酷い暴力を受け続けて育ち、周りに誰一人として見方もなく、孤立無援の生活を続けていたということがあります。次第に排他的になって、周りは全て「敵」で、自分を「攻撃」してくると頑なに捉えて生きているということがあります。暴力行為が辛うじて彼を支えているのです。世代を遡ると、加害者である親自身が、そのまた親に虐待されてきた被害者ということも稀ではありません。原因自体が結果だということです。
身近な不登校や引きこもりなどの事例も同様です。これが問題の原因だと結論付けて、それを除去しても、果たして子どもが登校するかは疑問です。
身の回りに起こる日常的な出来事は、複数のリスク要因が、ストレッサーおよび保護要因・レジリエンスと相互的・連鎖的に関連していて、そんなに単純なものではなく、全体像をみれば、はるかに複雑な構造になって存在しているものです。重大な問題ほど多数の要因が絡み合っているというのが普通です。
昔、「母原病」というベストセラーになった本がありましたが、母親一人を犯人にしても何の解決にもなりません。
権利擁護の活動の中で思うのは、複数のリスク要因の中では、特に、外的要因(「虐待」や「対人トラブル」など)や内的要因(「傷つきやすさ」「脆弱性」)を問題にすることは多いのですが、子どもや家族が有している健康な部分・プラスの部分への着目、いわば「レジリエンス」や「保護要因(プラスの要因や役に立つ資源)」の視点が軽視されているように思います。
良くあることですが、同じストレッサーにさらされた場合でも、深刻な事態になる人とそうならない人がいます。同じ環境でも、そうした違いはどこで生まれるのでしょうか?そこにサポートのヒントがあるように思います。
近年、困難な状況にあっても、しなやかに適応して生き延びる力があれば、厳しい状況でも、ネガティブな要因だけに支配されるのではなく、数々のポジティブな要因を見つけ出して、逆境を乗り越えることができるということが分かってきました。
確かに、逆境の中にあっても、信頼できる人・苦境に寄り添ってくれる人がいると、なんとか乗り越えることができるものです。ポジティブな人間関係の存在、高い自尊感情・自己効力感を有しているなどの「保護要因」は、強いストレッサーから自分を守ってくれます。
具体的にいうと、学校では苦しんでいても、家に帰れば暖かい家族が待っているとか、学校の中に信頼できる友人・教員・カウンセラーがいるとか、いざとなれば頼りになる相談機関があるとかは、有力な保護要因になります。自分を元気にする何かがある、打ち込める何かを持っている、さらに健康な集団に所属している人などは強いと考えられています。
最近では、重篤なリスク要因を低減することはもちろん必要ですが、保護要因を自覚させ、それを活性化させるような視点でアプローチしていくことも重要だと感じています。
ささやかな経験のなかですが、「どんな逆境の時にあっても、たった一人、自分の苦しみを理解し、それに寄り添ってくれる人がいれば、強く生きていける!」という思いがあります。

子どもの権利擁護委員 関谷 道夫

問合せ

所属課室:青森市福祉部子どもしあわせ課

電話番号:017-763-5678

ファックス番号:017-763-5678

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