この絵図は明治27年(1894年)に所蔵者の先祖が模写したもので、その原図は元禄のころ(1688〜1704年)より前に作られ、青森 興味を引かれたのは、当時の住家624軒すべての家主名が書かれていること、町境いに11ヵ所の木戸(出入口)があり、名主にもそれぞれ肩書きがつけられていることなどです。 堤川には茶屋町に向かって橋が一本架けられ、その場所は現在の旭橋あたりです。この橋を渡って青森に入るには、まず松森町の木戸を通らなければなりません。この木戸は東口最初の木戸でしたが、そのころの松森町(現在の青柳二丁目・堤一丁目あたり)は町並みができていなかったらしく、市中に入る人馬は、 西口には安方町と新町に木戸があり、安方の木戸は 寺町(現在の本町一丁目あたり)には現在と同じ四つの寺が載っています。正覚寺の山門から海に向かってまっすぐ下がる道路が正覚寺通りで、この道が大町(現在の本町二丁目あたり)にさしかかった所に、町年寄村井新助の家があります。 安方町は家数が165軒と最も多く、開港以前の善知鳥村の面影がまだ残っているようです。この町には、ほかの町では見られない、名主のほかに漁師頭の肩書をつけた人が二人います。 弘前藩では元禄10年(1697年)に木戸番について布令を出しているので、青森町でも11人の木戸番がしっかり役割を果たしていたことでしょう。 青森開港当時、諸国から集まってきた人たちも元禄のころは次の世代に移っていました。 青森町が近世港湾都市としてようやく定着し、人びとが生き生きとしてそれぞれのなりわいに精を出している姿が、この一枚の絵図からみえてくるようです。 【近世部会調査協力員 木村愼一】 ※『広報あおもり』2001年12月1日号に掲載
|