あおもり今・昔95

高田城跡(趾)と土岐氏

 青森市の市街地から青森空港に向かう途中に高田の集落があり、その入口に「高田城趾」と書かれた標柱が建てられている。高田城跡(趾)は、戦国時代に土岐則基(ときのりとも)が居城としていた場所である。
高田城跡に残る堀跡の一部
▲高田城跡に残る堀跡の一部

旧道(左側が川瀬・右側が日野)
▲旧道(左側が川瀬・右側が日野)
 土岐氏は南部氏の家臣で南部高信(なんぶたかのぶ)に仕え、高田に居城を構え八百石を領していた。しかし天正18年(1590年)、大浦(津軽)為信が津軽統一のために北畠氏の居城である浪岡城を攻撃した際に、高田城主であった則基、長男の則重(のりしげ)は浪岡城で戦死、次男の則忠(のりただ)と三男の則吉は浪岡郡代政信の娘を連れて三戸に逃れたと『南部藩諸家系図』には伝えられている。
 その後、江戸時代に入り、浪岡郡代政信の娘が七戸直時に嫁入りする時、土岐氏は付き人として七戸に移り、七戸直時の命により「高田」姓に改めることとなった。そのためか、七戸町で現在「高田」姓を名乗る多くの人たちは、高田城主土岐氏の子孫にあたるといわれている。
 また、高田城は、現在標柱が建てられている場所だけが城跡であるかのように思われがちであるが、城域はさらに広く、現在の道路(旧道)も、中世においては道路であるとともに、城下の中軸街路(メーンストリート)でもあったと考えられている。その街路の両側には高田城に伴う「中世の町」も存在していたものと推定される。城跡に残る現在の道路を南におよそ250メートル行くと左に大きく折れ、すぐに右に折れる鍵形(かぎがた)の格好となっているが、これは中世の町に見られる特徴のひとつである。そして「町」には城に関わりのある商人や職人が居住していたものと考えられる。
 戦国時代から、人びとの流れは複雑に交差し、見えない糸によって現在の私たちがつながっていることをあらためて感じさせられる。
【中世部会執筆編集員 小山彦逸】

※『広報あおもり』2001年10月1日号に掲載


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