あおもり今・昔85

田中勇三と青森の経済界

 田中勇三は、慶応元年弘前土手町(現在の弘前市)に生まれ、家業(呉服などの販売)に従事していたが、明治22年に青森町(現在の青森市)へ転居し運送業を始め、明治31年ころに青森市で最初の日本鉄道株式会社運送取扱人となる。その後、秋田県の小坂鉱山の資材・燃料などの運搬一切を引き受け、このことが、田中が事業に成功し財を為す大きなきっかけとなったとされる。
▼田中勇三
田中勇三
「青森商工会議所八十五年史」より
 当時、小坂鉱山で使用する資材などは、青森港で陸揚げされ、奥羽線で碇ヶ関まで運搬された後、青森・秋田県境の坂梨峠を越えて運ばなければならなかった。小坂鉱山が、事業拡張に伴い導入した大型溶鉱炉や機械類などを中央の視察検査を受けるため、期日通りに搬入することが求められていたとき、この作業を引き受けたのが田中であった。鉱山側は当初より大きな困難が予想されたため、期日通りの運送は不可能と思っていたが、田中は綿密な計算と大きな努力のもと、自ら陣頭に立ち指揮することで、期日を厳密に守って届けることに成功したのである。小坂鉱山側はこのときの田中の行為に感謝し、以後、鉱山関係の一切の運送は田中(丸本・三立社)が取り扱うこととなった。こうした実績により、後年、東岳村(現在の青森市)の石灰や秋田県の尾去沢鉱山の銅鋼運送も一手に引き受けることとなる。
 こうして、次第に青森市財界の重鎮の一翼をなすこととなった田中は、明治41年青森商業会議所常議員、同43年副会頭となり、翌44年11月には第5代会頭長谷川茂吉の急逝に伴い、若干46歳の若さで第6代会頭に当選し、大正4年まで会頭職にあった。
 この間の大正元年3月、塩蔵鰊用塩の割引きに関する建議書を大蔵省、農商務両大臣に提出している。これは、当時の青森鮮魚市場に、北海道・樺太・沿海州から大量の鰊が陸揚げされるに伴い塩蔵鰊用の塩が大量に使われ、この塩の割引きを求めるものであった。この請願が大正15年に実現され、青森鮮魚市場は一層の発展を遂げることとなるが、田中の先見の明をうかがい知れる。
 このほか、田中の経済界における業績としては、明治40年の青湾鉄工場の創設(ただし業績不振で3年ほどで解散)や大正11年の株式会社青森臨港倉庫の創設などがある。また、青森市政においても活躍し、第19代(大正2年)、第21代(大正6年〜8年)の青森市会議長も勤めている。
 剛胆で責任感の強い人物として知られた田中は、昭和16年8月、76歳で死去したが、その子息である敬三もまた青森市財界で活躍し、第13代青森商工会議所会頭を勤めることとなる。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2001年2月1日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ