あおもり今・昔83

長谷川茂吉と青森の経済界

 青森商業会議所の第5代目の会頭となる長谷川茂吉は、博労町(ばくろうちょう)(現在の青柳周辺)で嘉永6年(1853年)に生まれ、呉服反物商兼醤油醸造業を営む実業家であった。特に、製品の丸丁印醤油は品質が優良で、市内はもちろん北海道方面にも移出された。
▼長谷川茂吉
長谷川茂吉
「青森商工会議所八十五年史」より
 青森商業会議所には、明治26年(1863年)の創設時から発起人として参加し、以後役員を続け明治42年に副会頭、明治43年8月に樋口喜輔会頭の辞任を受けて第5代目の会頭に就任する。政治の分野でも、明治23年から連続して町会議員、市会議員に当選、明治40年には県会議員にも当選している。政党としては政友会に属し、初代大坂金助派の重鎮として活躍した。
 長谷川茂吉が活躍した明治末期の青森市は、日露戦争の勝利による樺太割譲を契機に、商工業が俄然活況を呈し、それと同時に青森港の特別輸出港指定(明治39年)、青森−ウラジオストック航路の実現(同41年)、国鉄青函連絡船の就航(同41年)と商業都市としての基盤が確立した時代であった。長谷川茂吉は、そうした中にあって最後に残った青森市の大悲願といえる青森築港に向けての政府請願などに尽力した。
 しかし、こうした商工業の活況を一転させたのが明治43年の青森市大火である。この大火で、永年にわたって蓄積された資産は一朝にして喪われ、青森の商業は以後、第一次大戦が勃発するまで「暗黒時代」となる。樋口喜輔会頭の辞任もこの大火による家業不振のためであり、長谷川茂吉はその後を継いで復興に奔走するが、翌明治44年に脳卒中で倒れ10月に死去する。享年60歳であった。 (敬称略)
【近・現代部会編集執筆委員 玉真之介】

※『広報あおもり』2001年1月1日号に掲載


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