青森商業会議所の第5代目の会頭となる長谷川茂吉は、
長谷川茂吉が活躍した明治末期の青森市は、日露戦争の勝利による樺太割譲を契機に、商工業が俄然活況を呈し、それと同時に青森港の特別輸出港指定(明治39年)、青森−ウラジオストック航路の実現(同41年)、国鉄青函連絡船の就航(同41年)と商業都市としての基盤が確立した時代であった。長谷川茂吉は、そうした中にあって最後に残った青森市の大悲願といえる青森築港に向けての政府請願などに尽力した。 しかし、こうした商工業の活況を一転させたのが明治43年の青森市大火である。この大火で、永年にわたって蓄積された資産は一朝にして喪われ、青森の商業は以後、第一次大戦が勃発するまで「暗黒時代」となる。樋口喜輔会頭の辞任もこの大火による家業不振のためであり、長谷川茂吉はその後を継いで復興に奔走するが、翌明治44年に脳卒中で倒れ10月に死去する。享年60歳であった。 (敬称略) 【近・現代部会編集執筆委員 玉真之介】 ※『広報あおもり』2001年1月1日号に掲載 |