樋口喜輔は、安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(現在の浪岡町)に山内伝三郎の三男として生まれた。9歳で青森町(現在の青森市)の樋口忠吉の養子となり、3年間ほど新町の安定寺にあった寺子屋で学んでいる。安定寺の寺子屋は、明治期に青森の各方面で活躍した多くの人材を輩出している。
このようにして一代で財を築いた喜輔は、渡辺佐助、大坂金助、淡谷清蔵らと並んで当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与することとなった。明治25年に町会議員に当選して以来、20年間の長きにわたって町会・市会議員を勤め、明治43年には市会議長の要職を勤めている。さらに、明治45年の第11回衆議院選挙では、政友会候補として青森市区から立候補し当選をしている。この間に喜輔は、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽くしている。 喜輔の経済界での活躍は、市の発展にとって極めて重要であった。彼は青森商業会議所の設立発起人の1人で、明治26年に商業会議所の設立が認可されると、議員に当選し、以後、連続してその職を勤め、明治41年には第4代会頭に当選した。さらに第7代(大正4年〜10年)、第9代(大正14年〜昭和4年)会頭にも就任している。このときは、一方は第一次世界大戦後の経済発展、他方は金融恐慌・昭和恐慌と、まさに経済の激動の時代であり、喜輔はこのような時期に市経済発展のリーダーとして活躍した。 そのほか、人材の育成を目的として青森市育成会を創設するなど、市の発展に多くの功績を残した喜輔は、昭和8年(1933年)11月、78歳で死去している。 (敬称略) 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年12月15日号に掲載 |