あおもり今・昔82

樋口喜輔と青森の経済界

 樋口喜輔は、安政3年(1856年)、南津軽郡浪岡村(現在の浪岡町)に山内伝三郎の三男として生まれた。9歳で青森町(現在の青森市)の樋口忠吉の養子となり、3年間ほど新町の安定寺にあった寺子屋で学んでいる。安定寺の寺子屋は、明治期に青森の各方面で活躍した多くの人材を輩出している。
▼樋口喜輔
樋口喜輔
「青森商工会議所八十五年史」より
 その後、喜輔は、12歳で大町の呉服商大岡茂吉商店へ見習に入り、20歳まで奉公した後、寺町に子ども相手の小さな商店を開き、独立した。喜輔は(もっぱ)ら行商に出歩き、その勤勉さは語り草となるほどであった。当時はまだ東北本線も開通しておらず、商品は船便で運ばれていたが、青森港より野辺地港で仕入れる方が安いことがわかると、青森・野辺地間を往復し、商品を油川、新城、浪岡、黒石まで売りさばいた。このような努力の結果、明治15年(1882年)、当時の青森の中心地である大町に商店を構えるまでになった。また、八戸の浦山商店が東京で直仕入れを行っていることを知ると、浦山商店の紹介もあって東京での直仕入れを実行している。大町に店舗を構えたことも、東北本線の開通とそれに伴う人通りを予測した結果だとされるが、先を見通す力や決断力そして不屈の努力こそが喜輔を市財界の重鎮とする条件であった。
 このようにして一代で財を築いた喜輔は、渡辺佐助、大坂金助、淡谷清蔵らと並んで当時の市財界の指導的立場に立つとともに、町政・市政にも関与することとなった。明治25年に町会議員に当選して以来、20年間の長きにわたって町会・市会議員を勤め、明治43年には市会議長の要職を勤めている。さらに、明治45年の第11回衆議院選挙では、政友会候補として青森市区から立候補し当選をしている。この間に喜輔は、青森港第2期拡張工事、水道事業の開始などに尽くしている。
 喜輔の経済界での活躍は、市の発展にとって極めて重要であった。彼は青森商業会議所の設立発起人の1人で、明治26年に商業会議所の設立が認可されると、議員に当選し、以後、連続してその職を勤め、明治41年には第4代会頭に当選した。さらに第7代(大正4年〜10年)、第9代(大正14年〜昭和4年)会頭にも就任している。このときは、一方は第一次世界大戦後の経済発展、他方は金融恐慌・昭和恐慌と、まさに経済の激動の時代であり、喜輔はこのような時期に市経済発展のリーダーとして活躍した。
 そのほか、人材の育成を目的として青森市育成会を創設するなど、市の発展に多くの功績を残した喜輔は、昭和8年(1933年)11月、78歳で死去している。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年12月15日号に掲載


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