あおもり今・昔80

渡辺佐助(二代目)と青森の経済界

 渡辺佐助(二代目)は、天保2年(1831年)青森町(現在の青森市)の長谷川勇助の次男として生まれ、名は佐兵衛であった。
 嘉永4年(1851年)、青森町で味噌製造業を営んでいた初代渡辺佐助の養子に迎えられ、文久2年(1862年)、初代の死去に伴い、佐兵衛が二代目渡辺佐助を襲名した。渡辺は、味噌製造・販売で財をなし、金物屋や呉服屋なども営み、青森町有数の実業家として成長していった。
▼二代目 渡辺佐助
二代目 渡辺佐助
「青森商工会議所八十五年史」より
 また、渡辺は中央の経済事情に明るく、渋沢栄一や安田善次郎など、中央の実業家とも親交があった。このことが現在の青森銀行(第3次)である第五十九銀行設立の際に、支店を青森町に置くことや明治26年(1893年)に自ら青森銀行(第1次)を設立するなど、金融界に積極的な関わりを持つ背景になった。
 渡辺が実業家としての地位を固めていた時期は、わが国の近代化と産業化の時代でもあった。青森町も青函航路や日本鉄道東北線(現在のJR東北本線)の開通などにより、通商交易が急速に発展し、特に米穀取引などがきわめて活発であった。青森町にも米穀取引所の設置を望む声が強まっていたが、国は商業会議所設置の地にこれを認める方針であり、そのため、明治26年10月に設置認可を得て、翌年正式に青森商業会議所(現在の青森商工会議所)が設立された。設立後、最も精力的に活動したのは初代大坂金助であったが、渡辺は政治的野望を何ら持たない人物として知られていたため、青森商業会議所の初代会頭として選出されることになった。
 渡辺は、明治31年2月に会頭を退任するまでの4年間、青森の経済・産業発展の取りまとめ役として活動し、特に青森港の修築と特別貿易港指定問題に精力的に取り組んだ。
 明治30年には青森電燈株式会社を興し、社長に就任するなど、晩年まで実業家として多忙な生活を送った渡辺は、勤倹節約(きんけんせつやく)を心掛ける一方、慈善事業や公共事業には金を惜しまなかったとされる。
 渡辺は明治33年4月26日、70歳で永眠した。 (敬称略)
【近・現代部会長 末永洋一】

※『広報あおもり』2000年11月15日号に掲載


前のページへ あおもり今・昔インデックスへ 次のページへ