![]() 嘉永4年(1851年)、青森町で味噌製造業を営んでいた初代渡辺佐助の養子に迎えられ、文久2年(1862年)、初代の死去に伴い、佐兵衛が二代目渡辺佐助を襲名した。渡辺は、味噌製造・販売で財をなし、金物屋や呉服屋なども営み、青森町有数の実業家として成長していった。
渡辺が実業家としての地位を固めていた時期は、わが国の近代化と産業化の時代でもあった。青森町も青函航路や日本鉄道東北線(現在のJR東北本線)の開通などにより、通商交易が急速に発展し、特に米穀取引などがきわめて活発であった。青森町にも米穀取引所の設置を望む声が強まっていたが、国は商業会議所設置の地にこれを認める方針であり、そのため、明治26年10月に設置認可を得て、翌年正式に青森商業会議所(現在の青森商工会議所)が設立された。設立後、最も精力的に活動したのは初代大坂金助であったが、渡辺は政治的野望を何ら持たない人物として知られていたため、青森商業会議所の初代会頭として選出されることになった。 渡辺は、明治31年2月に会頭を退任するまでの4年間、青森の経済・産業発展の取りまとめ役として活動し、特に青森港の修築と特別貿易港指定問題に精力的に取り組んだ。 明治30年には青森電燈株式会社を興し、社長に就任するなど、晩年まで実業家として多忙な生活を送った渡辺は、 渡辺は明治33年4月26日、70歳で永眠した。 (敬称略) 【近・現代部会長 末永洋一】 ※『広報あおもり』2000年11月15日号に掲載 |
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