あおもり今・昔74

中野浩とその時代

 大正末年は、青森市会にとって大きな変動の時期であった。青森市政財界巨頭の淡谷清蔵、大坂金助、工藤卓爾らが相次いで死去し、市会の勢力は政友派から民政派に移った。
 市会で過半数を制した民政派は、市長の選出にあたり、中央で相当の人物を市長にすれば、中央の実業家が青森市に投資し、企業も誘致できるだろうと意図し、東京都深川区長の中野浩を三顧の礼をもって迎え、大正15年(1926年)8月、市政始まって以来の県外移入市長が誕生した。
 中野浩は明治9年(1876年)、弘前(現在の弘前市)で生まれ、明治35年に明治大学法科を卒業後、日本新聞社の社長である陸羯南(くがかつなん)の推薦で台湾総督府官吏になった。だが、台湾で風土病に(かか)ったため帰国し、しばらく静養してから再び上京し、時事新報社、そして東京毎日新聞の政治記者となった。記者時代に知り合った尾崎行雄氏の推薦で、明治42年に東京市(現在の東京都)に就職し、その後、赤坂区長に抜擢(ばってき)され、青森市長として迎えられるときには深川区長の要職にあった。
▼中野浩 
中野浩
「目で見る青森の歴史」より
 市長在任中の主な事業は、昭和2年(1927年)の造道村大字八重田・造道、滝内村大字古川・沖館・新田の青森市への合併、第五連隊練兵場移転問題、青森港第2期修築拡張の請願、八重田地区への国立種鶏場設置などがある。
 特に、第五連隊練兵場移転問題は、手狭になった造道練兵場を浜館村字駒込に移転するもので、新練兵場の土地買収費を造道旧練兵場の土地を分譲することでまかなおうとしたが、なかなか売却が進まず苦心していた。
 この背景には、旧練兵場が手狭になったので、当初、陸軍は第五連隊を第八師団のある弘前へ移転させる計画だったが、多大な購買力を持った連隊が移転すれば、青森市の経済に大きな影響を及ぼすことになるため、市は新たな練兵場を提供して、弘前への移転を思いとどまらせたという経緯があった。
 そのほか、中野の活動で注目されるのは、「正話会」という標準語を練習させる会を組織したことである。これは、青森県人が中央でなかなか成功できないのは、方言で話すため内容が充分通じないことが理由の一つであると考えたからである。おそらく、県人として中央で成功した中野自身の経験が背景にあったことだろうと思われる。
 この活動は次第に県民の世論を高め、その後、県の学務課は各小学校に正話会の開催を指示するようになった。
 中野は昭和5年の市長選で2期目を目指したが、勢力を挽回した政友派候補の北山一郎に敗れた。その後、まもなく東京市に戻り、淀橋・板橋の区長を歴任した。 (敬称略)
【近・現代部会調査協力員 宮本利行】

※『広報あおもり』2000年8月15日号に掲載


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